はじめに

物心がつくかつかないかの頃から、常に傍には本がありました。
あの頃、読書をすることは現実逃避であり、異世界への旅行であり、数多の人たちとの出会いであり、知識の源泉であり、つまるところ極上の娯楽体験でした。
大人になるにつれて読む本の傾向は変わり、本棚の大半を思想書や学術書が占めるようになっていきました。難解さに唸ったり苦しんだりすることもしばしば。それでも相変わらず読書は好きです。
けれど、ある時ふと、この頃自分は純粋に本を楽しんでいないんじゃないか?という事実に気がつきました。
そんな人生はつまらない!

という訳で、小説を読み直していくことにしました。
ジャンルは、ミステリ・SF・ライトノベルあたりに偏重していく予定です。

とあるひとりの本読みが、物語への愛情を確かめるこの道程、お付き合いいただければ幸甚に存じます。

アーサー・コナン・ドイル 『四つの署名』 光文社文庫、2007年

四つの署名
読了:2015年2月17日

先日、三谷幸喜×NHKの人形劇『シャーロック・ホームズ』が最終回を迎えた。
15歳のホームズとワトソンが同室の全寮制学園ものとか、三谷幸喜は新選組だけでは飽きたらずま~たこういうことやってからに…と理不尽に憤っていたのだが、でもまあ据え膳食わぬはオタクの恥、ということで実際のところかなり楽しんで観ていた。
思えばホームズを偕成社の全集で読破したのも早20年前…当然のごとく忘れている設定、キャラクター、話も多かったので、人形劇の元ネタ復習も兼ねて久々に再読してみた。
折角なので最新の日本語訳を選んだのだが、現代風で非常に読みやすく、記憶とは違う印象を受けたものの個人的にはかなりアリ。

ドイルあるいはホームズシリーズを語る上で、作品の時代性は避けて通れない要素である。この長編も例に漏れず、世紀末のイギリスの世相がまざまざと表れていてめちゃくちゃおもしろかった。逆に言えば、植民地支配やレイシズムのなんたるかを知らなかった小学生の自分がこんな物語を読んで、無意識的にどんな影響を受けていたのかと思うと恐ろしい。
筋を追ってみると、とあるインド人藩主の私財をとあるイギリス人含む四人組が強奪する→藩主のスパイの密告によって四人組は投獄され終身刑に→囚役中に出会ったイギリス人の軍人と同盟を組み、脱獄と財宝山分けの取引をする→イギリス人の一人が裏切る→四人組の一人が復讐に燃える、という事件の背景が見えてくるのだが、おわかりの通り、ここに出てくるイギリス人、全員がクズだ。
偉そうに復讐とか言ってる方も泥棒だし、同じく泥棒の裏切った方など、厚顔無恥に美術愛好家を自称して優雅な暮らしを営んでいる。おまけに自分が裏切った仲間の娘にちょこっと宝石を送ったくらいで、義務を果たした善人面をしている。ひどい。ひどすぎる。
しかし、ドイルの筆はイギリス人のひどさを糾弾はしない。寧ろ、野蛮で非常識な「現地人」を登場させることで、イギリス人の言動を正当化しているきらいすらある。
しかし、話せばわかる白人、話の通じない現地人、というヒエラルキーをしっかり形成しておきながら、前者に属するホームズをあえて「異端者」として描いているからこそ、このシリーズはおもしろいのだと思う。
ワトソンにとって、ホームズはいっそ未知の存在だ。同じところにいて、同じ人と会っても、ふたりは違うものを見ている。ホームズとワトソンが同じイギリス人であるにも関わらず、ふたりの差異はかくもはっきりと示唆されるのだ。まるで、入植者と現地人のように。
では、ホームズはワトソンを蔑視しているか?あるいは、ワトソンはホームズを胡乱に感じているか?もちろん、答えはノーだ。
本書のふたりはほんとうに仲が良い。犬を駆って犯人をたどるシーンなど、まるでデートのようだ。ホームズはワトソンが結婚報告したら拗ねるし。
このような「異端」の存在に対するドイルのアンビバレントな態度を読み取るというだけでも、この作品は楽しめるのである。

今更ストーリーに対しては何を言うこともないのだが、今回読みかえしてみて、ホームズがとてもアクティブであることを意外に思った。本人はあまり動かず、ワトソンが収集したあれこれと膨大な知識を材料に沈思黙考しているイメージがあったのだが、実際は寝る暇も惜しんであっちへうろうろ、こっちへうろうろ。お蔭で場面転換がめまぐるしく、新訳の軽妙さも手伝って、映像作品を見ているかのような勢いで読めた。
ダゴベルトを読んだ時にも思ったが、やはりエンタメ作品で文学史に名を残すもののおもしろさは抜群である。あまり時間をおかず、また全作品読み返したいと強く思った。

シェリー・ベネット 『ラーラはただのデブ』 集英社文庫、2003年

ラーラはただのデブ
読了:2015年2月16日

すごい邦題である。
書店で見かけて一瞬で買ってしまった。もともとLIFE IN THE FAT LANEだったのをこう訳したのは力技という感じだが、これがなかなかどうしていい味を出している。読み終えて、「ただのデブ」はインパクトを追求しただけでなくストーリーの核心をきちんと突いている言い回しだとわかり、感心した。
小学生の頃読んだ『鏡の中の少女』が衝撃的で、しかもその後身近で摂食障害にかかった人がぽつぽついて(そして一人は小学生だったのにそのまま亡くなってしまった)、デブだのガリだのという価値観にはだいぶ抵抗があるのだが、一方で普通にその価値観に囚われている自分がいることも事実であり。そして我らが日本人の痩身幻想はアメリカ発祥であることは論を俟たない訳で。
そんなダブルバインド下の現代人の心を容赦なくえぐっていくブルドーザー小説だった。

絵に描いたようなリア充で美しい女子高生の主人公・ラーラがある日突然原因不明の肥満症に罹り、どれほど過酷なダイエットをしても体重が増え続け、どんどんスクールカーストを転落していく、という地獄のような設定の話である。
幼い頃からミスコンの常連だったラーラは、しかし美人であることを鼻にかけないし、誰にでも分け隔てなく優しいし、ぽっちゃりめで周りからちょっと疎まれてる女の子を心からの親友として慕い、顔だけ良いチャラ男ではなく芸術的センスのあるちょっと変わった男の子にベタ惚れしてしまうような、かなり好感の持てる女の子として描かれている。
ミスコンの元クイーンとしていつまでも女王のように美しくありつづける母に、自分に相応しい「完璧」な娘になれと育てられてきたラーラは、一途努力の人である。彼女が恵まれていたのは、生まれ持った美貌や両親ではなく、どんな努力も報われる環境にあったということであった。がんばればがんばるだけ認められるという事実の積み重ねがラーラの矜持の根幹となり、努力礼賛とでも呼ぶべき彼女の性格が形成された。
しかし、肥満はそのすべてを奪ってしまう。
どれほど物を口にしなくても太る。どれほど運動しても痩せない。どんな治療法も薬も効かない。
ラーラは人生で初めて努力で獲得しえないものの存在と直面する。しかも、周りの人間は、ラーラが血のにじむような忍耐力で食事制限に励んでいることなど知る由もない。彼女は単に「美貌に甘んじて怠惰にしていたらぶくぶく太ってしまった、自己管理のできない人間」として見られるのである。
更に、ラーラにとっての最大の悲劇は、彼女の努力を認めない人々の筆頭が実の両親であったことだった。母親も父親も、ラーラがこっそりつまみ食いをしていると思い込み、痩せていないラーラをかりそめの間違った姿としか見ることができないのである。憧れの両親から蔑まれ信じられもしないという辛い日々を送るうちに、ラーラの自尊心は著しく傷つけられ、彼女は心の平和を失ってしまう。ミスコンで鍛え培った、誰にでも好かれる愛くるしいラーラという人格は破られ、どんなことにも文句をつけずにはいられない不機嫌な怪物がラーラを支配していくようになる。

もはや美しくなく、性格すら悪くなってしまった自分を、ラーラは受け入れることができない。懊悩の中、彼女は「他人からどう見えるか」という価値判断だけが拠り所だった自分に気がつく。そして、その価値の基準がものすごく皮相的で冷酷なことにも。
完璧な両親に愛される自分。素敵な彼氏の隣にいる自分。おしゃれな女友達の中心にいる自分。
自分を定義する肯定的な外的要素がなくなったことで、ラーラはむき出しの自分と対峙しなくてはならなくなる。自分のほんとうの人間的価値とは、どこにあるのか。それを見つけることは容易ではないが、見つけなければ死活問題だ。自分との戦い方を教わってこなかったラーラが、もがきながらその難題と向き合う様はほんとうに辛くて、かわいそうで、胸がぎゅーっと締め付けられた。

ラーラはずっと、自分は「ただのデブ」じゃないと言い聞かせ続ける。「ただのデブ」の仲間入りすることを嫌悪し、「ただのデブ」を見下す。そうすることが、自分を守る術だと信じていたからだ。しかし、両親の夫婦関係の破綻をきっかけに、彼女はずっと守ってきたものの本質を疑い始める。こんなものを守ろうとするから苦しむのではないか、と思い始める。
その一歩は、苦しすぎるものだ。しかし、ラーラの人生を確実に切り拓くものでもある。
物語のラスト、未だ肥満という試練をかかえながらもなにか肩の荷を下ろしたように見えるラーラの姿には救いがあって、読者に、きっとこれからの彼女は大丈夫だろうという希望を抱かせる。
後味の悪い小説ではない。しかし、闇の深いアメリカ社会で女として娘として生きることの難しさをつくづく実感させられた。
女はつらいよ。

山川進 『温泉ドラゴン王国1~ユの国よいとこ、一度はおいで~』 オーバーラップ文庫、2013年

温泉ドラゴン王国
読了:2015年2月14日

温泉に行きたかった。ので、読んだ。
オーバーラップ文庫というレーベルは不勉強にして知らなかったのだが、カラー口絵と挿絵は大盤振る舞いだし本文のルビ当ても適度で、なかなか好感触。

大国に挟まれながら、政治的特に価値がないからという理由で戦禍を免れ続けている平和ボケのユ国を舞台にしたファンタジーである。なぜユ国かと言うと、温泉が出るから。しかしこの温泉、なぜかユ国では大して有難がられていない。ある時、隣の大帝国から温泉の魔法的効能を研究する学者が現れたことで、温泉の価値が知られ始め…という大筋である。
主人公はユ国の王位継承者・王子アリマだが、まあなんというか、特に何もしていないのに自動的に様々なタイプの女の子から好意を寄せられる(そしてドギマギしつつも迷惑がる)という、ありふれたラノベ主人公少年でしかない。彼の周りを固めるのは、天才剣士ながら人懐っこく超のつく美人で巨乳の姉ユフィ(アリマを溺愛している)、前述の温泉研究家でパッと見はもさかったけど実は超美少女でちょっと不運属性のあるドジッ娘ハナ(アリマに惚れる)、人間の男に惚れたがために美ロリ化してしまったお茶目でやんちゃな最強ドラゴン・ラドン改めミササ(アリマを気に入っている)の三人。露天風呂のある王宮というロケーションを最大限活かし、この三人とアリマが裸の付き合いをしたりしなかったりしたりしてるうちにいろいろ事件が起こって解決してまた入浴して大団円、みたいな話が展開される。うーん娯楽!それ以外に当てはまるべき語が何もない。
アニメではよく本編にほとんど関係ない箸休めの温泉回が挟まれることがあるが、この作品はそれを一本にしてみた、という感じ。そう思っていたら、あとがきで作者御本人がそもそもの着想はそこからだと明言されていた。納得である。

ストーリーの伏線回収はきっちりしているし、文章もさらさら読むに難のない完成度だ。キャラクターの描写はいかにも表層的だが、作品のコンセプトからすれば却ってそれくらいが良いのだろう。この軽佻浮薄なノリを、途中まではなんだかんだと楽しんで読んでいたのだが、第三話でどうしても腑に落ちない展開があって、そこからはテンションがだだ下がりになってしまった。
アリマは、姉の才能とカリスマ性を「尊敬」しているが、男子に王位継承権が与えられるユ国において次の国王はアリマに内定している。そこで、アリマは

「ユフィは、王になりたいと思ったことはないの?」

と問うのだけれど、それに対するユフィの答えが

「王になりたいと思っていた時期もあった。だが、武者修行で、外の世界を回って納得した。……私は女なのだ。私では王にはなれない」
「今の私の望みは、アリマの支えになることだ。アリマを支え、身も心も一つになって共に歩むことが私の望みだ」

という台詞。
はあ?良妻賢母思想か?明治時代か??なんだこれ???
しかもアリマもアリマで、これを真に受け「お~しじゃあ俺が頑張るぞ~」と一念発起して、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
おまけにこの後、帝国から宣戦布告を受けて、ユフィは自らが皇帝に嫁ぐことで国を守るとか言い出すのだ。
がっっっっっっっっっっかりだ。
ファンタジー小説で、美貌の天才剣士である一国の姫に、こんなことしか言わせられないという思想の狭さに心底がっかりだ。
こういうジェンダー観を提示されてしまうと、温泉でいちゃいちゃしているシーンも女の子キャラのお色気シーンもすべて性的搾取というつまらない枠組みに落とし込まれてしまう。アリマの口から語られるユ国の「平和」が、ただの消極的平和にしか過ぎないのだと思えてしまう。
エンタメ作品において、ポリティカルコレクトネスが絶対に必要だとは言わない。倫理的に逸脱しているからこそ魅力のある作品も確かにあるし、それこそアニメの温泉回や水着回は楽しい。でも、ユフィというキャラクターがこんなにつまらない子になってしまうのであれば、そこにPCという歯止めをかけてほしかったと思う。
ラノベを読んで、こんな表現にいちいちつっかかる方がお門違いだと言われるかもしれない。でも、どうしても、どうしても許せなかった。全体的な出来が良かっただけに反動が大きくて、ラノベ修行の厳しさにまたしてもため息をつくばかりなのであった。

加藤聡 『走って帰ろう!』 ファミ通文庫、2006年

走って帰ろう
読了:2015年2月13日
巷間での自転車ブームは相変わらずで、『弱虫ペダル』はアニメ二期も絶好調のようである。お蔭様で、拙ブログの感想から『サクリファイス』を読んでくれた友人も何人かいて、自転車ものの底力をひしひし感じる今日この頃。偶然が重なり、また良い出会いがあった。ファミ通文庫などという思ってもみないところから出ている上にこの表紙絵、イマイチインパクトが乏しい題名。いやいや外見で判断してはいけない、これ、とんでもなく面白い自転車小説である。

主人公・卓也は、とりたてて目立つところのない普通な感じの高校生。ある日学校から家に帰ると、彼を待っていたのでは家族ではなくヤクザの原田で、借金を残して夜逃げした両親の肩代わりをしろと詰め寄られ…と、物語は劇的な始まり方をする。卓也はいかにもイマドキの高校生というか、ラノベ主人公っぽいというか、こんな状況に陥ってもえらくマイペースで、ヤクザをのらりくらりとかわす。原田が、部屋にあったロードバイクを卓也のものだと思い込んだのをいいことに、ロードに乗ったことすらない身で闇レースに出場する約束をつけるのだ。
話は、このロードの闇レースを中心に展開していく。原田のように競馬に参加できない特殊な職種の人間らが、馬のかわりにロードレーサーの「主」になり、その勝敗に賭ける。ロードレーサーは馬ならぬ犬と呼ばれ、それぞれ滑稽なレース名をつけられ走っている。卓也と同じく、他の「犬」たちも皆金銭的トラブルに巻き込まれ借金まみれで、レースの一回一回に文字通り命がけで臨んでいるのである。
卓也のように、初心者状態から上り詰めていく者、もともと素地がある者、他スポーツの経験者等々、レーサーのバックグラウンドは様々だ。男女混合だし、もちろん年齢制限もなければ、ドーピング検査すらない。行われるレースはクリテリウムのみだが、レーサーのタイプもまちまち。整備されていない有明埠頭の公道を走るという環境プラス、このなんでもありという状況、読んでいて興奮しない訳がない。
もともとは金のために始めたレースだが、そこがレーサーの性というかロードの魅力というか、卓也たちはどんどん走ることに熱中していく。現実的には、一刻も早くこんな使役を終えたいと思っているのだが、その冷静と情熱のバランスがなんとも言えずうまく描かれている。
一つだけ難癖をつけると、『サクリファイス』ほど丁寧にロードの解説がある訳ではないので、自転車を知らない読者はちょいちょい?が出るかもしれない。

自転車にかぎらず、スポーツもののエンタメには、「爽やか」「達成感」「自信」みたいな肯定的なイメージが付随する。彼らは、スポーツをすることで、より高みへ登ろうとするし、登っていく。しかし、本書におけるロードレースはもっと泥臭い。
卓也がレースを始めた頃、とある先輩レーサーはこう言う。

走る奴ってのは、おおまかに二種類に分けられるんだ
急いでどこかに行こうとする奴と、急いで家に帰ろうとする奴だ
……で、ドッグレーサーってのは、結局、家に帰ろうとする奴の集まりだな。

スポーツものの常識を覆すこの後ろ向きな精神性はとても斬新で、なおかつ卓也のキャラクターとよくマッチしてほんとうにきれいに仕上がっていた。

ちなみに表紙にいる女の子はヒロイン然としているが、そこまでラブコメ要素は強くない。しかし、天然な卓也と彼女の噛み合ってるんだか合ってないんだか、というやりとりは非常に微笑ましくて、ともすればど重い印象になっていただろうこのストーリーに一掬の青春感を加えていてよかった。
映像が目に浮かぶようないきいきとした情景描写や多くは語られずとも一人ひとり強烈なレーサーたちのキャラクターデザインなど、とにかく並々ならない上手さがあると思ったが、この作家、もうラノベは執筆されていないようで。残念である。

田代裕彦 『平井骸惚此中ニ有リ』 富士見ミステリー文庫、2004年

平井骸惚此中ニ有リ

読了:2015年2月7日

このタイトル、ラノベをあまり読んだことないサブカル・日本文学好きホイホイのラノベって感じがめちゃくちゃしてすごく気になっていて、軽率にホイホイされてもいいのか…と悩みつつまあなんだかんだ簡単にホイホイされた。
ラノベはいつも全く前知識なく読むので、今回もどんなジャンルなのかもわからず読んだが、思ったより探偵小説然としていたのは嬉しい誤算だった。それもその筈、あとがきを読んだら、本書を選出したのは有栖川有栖・井上雅彦・竹河聖のお三方だったらしく。10年前はそんなミステリの賞があったんだなあ…。

舞台は大正時代。主人公はパッとしないけど一応帝大に通う童顔書生・河上太一。文芸雑誌で読んだ探偵小説に憧れ、作家・平井骸惚その人に弟子入り志願するところが物語の始まり。設定としては凡庸っちゃ凡庸なのだが、本書が冒頭からちょっと読者をびっくりさせるのはその文調。引いてみよう。

六尺を超える長身なれど、横に幅がまるでなく、恰も枯れ木のような風情。眉は薄く、切れ長の目は落ち窪み、そこに円形太縁のロイド眼鏡。すらりと伸びた鼻は高々、顎が些か尖りぎみ。顔にも肉付きと言うものが感じられませんで。まさに骸骨、髑髏(されこうべ)。……まさか、それが筆名の由来でもありますまいが。

そう、講談調なのである。これでミステリを書き通したのは確かにすごい。読み始めこそ引っかかるが、ラノベ特有の括弧付き台詞の多さとこのぽんぽんという歯切れ良い文章はとても相性が良く、リーダビリティを大いに向上させている。時代ものは往々にして読みにくいのが難点だが、それを逆手に取った面白い意趣だと思う。そして、序章と終章でひっそりと、なぜ本編がこの伝聞スタイルで語られているかという謎の答えが提示されているのも、なかなか憎い演出である。

事件自体は、それほど複雑なものではない。平井先生の知己である作家の唐突すぎる自死をきっかけに、ほんとうは自死ではないが真実を暴きたてるべきものでないとする平井先生の美学と、他殺ならば下手人は社会的制裁を受けなければならないとする太一の正義がぶつかりあう。事件が解けなければ破門だと言い渡された太一が、右往左往しながら謎の解明にあたる、という大筋である。
この師弟のほかにもう一人登場する重要人物が、平井先生の娘・涼なのだが、この子がどうにもつまらない。ものすごく典型的なラノベのヒロインというか、大して何ができる訳でもないがやたらと気が強く、主人公に対してツンデレで、容姿だけはかわいい、というキャラクターなのだ。こうして書いてるだけでうんざりしてくるのだが、これに萌えられないとラノベは楽しめないんだよなあ。
折角大正なんていう良い時代に設定しているのに、どこにでもいそうなラノベヒロインを女学生コスプレさせただけじゃちょっとひねりが足りないと思ってしまう。まあそもそも時代考証自体がそれほど練られている作品という訳ではないのだが。

謎解きの首尾はというと、太一と涼が駈けずりまわってヒントを集めに集め、それでもたどりつかなかった答えを、なぜか平井先生ははじめからわかっておいでで、最後の最後は格好良く全部持っていって「犯人はあなただ」シーンを演じる、ということになっている。いわばヘイスティングスくんとポワロ様式。現場に全員を集めて実際に犯行を再現してみるというのもいかにも典型的で、文章のわりにミステリ部分が「普通」だったのは拍子抜けだった。
それでも、「殺人犯に動機はない、動機は殺人を理由付けしたい第三者によって生み出される」という平井先生の見解は面白かった。(この場面で作家のくせに「すべからく」を誤用しているのが大いに残念)
架空の殺人事件を考えて書くことと、実際に人が殺されること、そして小説の中で探偵が事件を解くことと、実際に誰かが誰かの罪を明らかにすることの間には、どんな違いがあるのか。物語の主軸に、この探偵作家だからこその目線をうまく盛り込んでいたのが良かった。

我孫子武丸 『眠り姫とバンパイア』 講談社、2011年

眠り姫とバンパイア
読了:2015年2月6日

学研「少年少女・新しい世界の文学」シリーズや、集英社ギャラリー「世界の文学」シリーズと並んで、装丁の美しさのために全巻揃えたいと願ってやまないシリーズが講談社ミステリーランド。
第一回配本が、寡作の小野不由美の書き下ろしだったことがきっかけで読み始めたのだが、祖父江慎のキレキレなセンスが遺憾なく発揮されているこの装丁に、とにかく豪華なイラストレーター陣の挿絵がたまらなく、以来数年は追いかけていた。ちなみにどれも粒ぞろいだけれど、個人的なベスト3は『闇のなかの赤い馬』『いつか、ふたりは二匹』『透明人間の納屋』。
しばらく配本が途絶えていたので、ふとこのシリーズはどうなったんだろうと検索をかけてみたら、なんと復活していたようで、未読のものを発見!しかも、人形探偵なんかが大好きだった我孫子先生×バンパイアというタイトル。嗚呼、ミステリーランドの引力は衰えていなかった…。

物語は、小学生の女の子・優希と、彼女の家庭教師を担当することになった学生・歩実、それぞれの視点から交互に語られていく。ふたりを結びつけたのは、優希の元・家庭教師であり歩実の友人である美沙。我孫子武丸の本領発揮というか、この三人のキャラクターがなんとも良い。パッと惹きつけられる派手さこそなけれ、読んでいるうちに三人のことが大好きになってしまう。ミステリというジャンルでこれを成立させるのって結構難しいことだと思うのだが、この堅実な人物描写は我孫子先生の得意技と言ってもいいのではないだろうか。
優希と歩実の名前にもちょっとしたトリックがあって、お互い性別を勘違いしたまま出会うというのがかわいい。特に、荻野歩実という名の持ち主が、身長185cmでふくよかな、天然パーマだかなんだかのもじゃもじゃ頭をしている巨漢というのがいわゆるギャップ萌えである。
母子家庭で育ち、不登校気味で、周りからは「難しい子」「ヘンな子」と思われている優希に対して、歩実が慎重に誠実に向き合っていくさまは、とても安心しながら読めた。

歩実が解くことになるのは、優希の父親はいったい何者なのかという謎である。優希は父親をバンパイアだと信じている。彼女の話には整合性もある。しかし、現実に起こったことと照会すると齟齬が生じる。このミステリは、謎解き自体が難しいものではない。実際、歩実が特別に頭が切れるだとか、彼の調査力が玄人はだしだとかいう描写はない。図書館で過去の新聞をあたったくらいで答えが見えてくるレベルの問題なのだ。
しかし、彼が最も悩んだのは、「難しい」優希をいかに傷つけず真相を明らかにしていくか、という一点であった。
そしてその甲斐あって、歩実によって優希たち家族は新しい扉を開くことができるようになる。でも歩実は、事件解決が明るい未来を約束する訳ではないこともちゃんと理解している。扉を開けたあとの彼らが進む道を決めるのは、探偵の仕事ではない。
優希を煩わせていたのは、刑事事件ではなく、しかし、いわゆる日常の謎と呼ぶにはいささか重大すぎるものであった。そういう特殊な謎を、他人である歩実は一体なんのために解くのか。その探偵役のレゾンデートルがしっかり書かれていたのがとても良かった。

バンパイアという架空の存在について、優希の思い込みではなくもしかしたら…?という期待感があまり煽られなかったり、謎解きがちょっと地味だったり、我孫子作品の中では白眉とは言えないかもしれない。しかし、ミステリーランドだから、これでいいのだ。謎解きに徹した理詰めのミステリは、大人になってからいくらでも読めるし、法月綸太郎や有栖川有栖がちゃんと請け負っている。ミステリーランドの使命は、ミステリの魅力を多角的に子どもに体験してもらうことだと思う。あるいは、我々大人のミステリ読者の慣れを洗い流すこと。
謎を作るのも、それに悩むのも、それを解くのも、ぜんぶ人間だからこそ、ミステリには無限の可能性がある。「人」を描く我孫子ミステリを読むと、それを思い出すことができるのである。

滝川羊 『神々の砂漠 風の白猿神』 富士見ファンタジア文庫、1995年

神々の砂漠 風の白猿神
読了:2015年2月2日

エンタメ作品の多くは、生み出された時代によって雰囲気が如実に違い、一見してそれがいつ頃のものかすぐわかるのがおもしろいなあと思う。
コンテンポラリーな作品では特にその文化的コンテキストを知っているからこそ何倍もおもしろく感じられる場合が多い。(逆を言えば、「当時」を知らない人たちがその作品だけを切り取っても依然おもしろさが突出しているものを名作と呼ぶのだろう。)
本書は、言うなれば90年代エンタメの申し子のような作品だ。どこを取っても、ひたすら90年代感に溢れている。
設定やキャラデは言わずもがな、随所に見られる男尊女卑的な言い回しや、続き物でありながら20年経った今でも2巻が出る気配すらないという状況さえ、90年代的であることこの上ない。
このコテコテな一昔前の雰囲気が好きか嫌いかと聞かれれば、そりゃあもう大好物な訳で、つまり、これ、めちゃくちゃおもしろかった。

大筋を紹介しようと思ったのだが、書いてみたらただ陳腐なだけで全くつまらなさそうだったので割愛させてもらう。
2015年に読んでいるということを差し引いても、この作品全体に漂う既視感を否定することはできない。ガンダム、宮﨑駿、あかほりさとる、広井王子、AKIRA、鬼神童子ZENKI、3X3 EYES、ペルソナシリーズ、砂ぼうず…挙げればキリがないが、とにかくこの頃の「オタク」文化の粋を集めたような世界観である。
しかし、それなのになぜか安易なオマージュという印象に収まらないだけの魅力がある。
一つは、神格匡体という兵器のキャッチーさ。それ自体はただの丸いポッドだが(HEROMANのタマみたいなものだろうか?)、適性を持つパイロットの想像力と呼応することで古今東西の神が具象化し、その神の力をもってして敵と戦うという兵器である。まあ何を言っているのかわかるようでわからないのだが、荒れ果てた砂漠に放り出されたポッドから、猛々しい神々が現れるというそのビジュアルがやたら格好良い。
そして、文章の巧さ。時々、主観が入れ替わっているのに主語が省略されていてひっかかる箇所もあったのだが、とにかく情景や人物、アクションシーン、日常パートの丁々発止、どれを取っても完成度が高い。語彙も豊富だし、「格好良い」言い回しをしたがったために文章が引きずられるというような失敗もあまり見られない。
天才メカニックと天才パイロットという本来分業すべき二役を主人公の宴ひとりに兼任させたことで、メインキャラクターの総数を減らし、それぞれをある程度の深度まで描くのにも成功している。(最年少パイロットの真一はちょっと影が薄かったが。)味方一人ひとりのキャラが際立っているのはもちろん、敵である高潔カリスマ美女剣士・焰光院もすばらしいキャラクターだ。

描写の細かさを鑑みれば、よくこの密度のストーリーを350枚に収めたな!?と驚くほど、本書の組み立ては効率よく、テンポ感も抜群。一体なぜこれほどまでに条件の整った作品が続かなかったのか、それこそが最大の謎である。ああ…続き読みたいなあ…。
ちなみに本書を読み終わったあとネットを見ていたら、なんと滝川羊は高瀬彼方に帯で推薦文を寄せていたようで。名前を知っているラノベ作家なんて両手で数えられるくらいしかいないのに、こんなピンポイントでつながってくるとは、世界はかくも小さい。

現在進行中
春日武彦『様子を見ましょう、死が訪れるまで』
山田風太郎『甲賀忍法帖』
神々廻楽市『鴉龍天晴』

高里椎奈 『うちの執事が言うことには』 角川文庫、2014年

うちの執事が言うことには読了:2015年2月1日

高里椎奈という作家はどのくらい人気があるのだろうか?
中学生の時分、彼女の『薬屋シリーズ』はめちゃくちゃ人気があった。(半径50mくらいのオタクコミュニティ内で限定的に。)
友人たちの熱いリコメンドを受けて何冊か読んだ記憶はあるのだが、直後に『京極堂シリーズ』ブームが(半径15mくらいで小規模に)やってきて、専らそちらに傾倒してしまったので正直あまり内容を覚えていない。秋を好きだと言っていた記憶はうっすらある。
そんな訳で、高里椎奈という字面を見ると、どハマリできなかった罪悪感と懐かしさと親しみを覚える。そして、この実にかわいらしい表紙イラストに「執事」という釣り針キーワードの組み合わせを見て、10年越しのリベンジを決意したのであった。

舞台は現代日本なのだが、イギリス式の使用人制度があり、上流階級らしき人種が存在していて、主人公はイギリスのパブリックスクールに行きながら18歳で博士課程を修了しているという、いっそファンタジーな設定である。※
気まぐれで当主引退を宣言し、完璧と呼んでも差し支えのない老執事・鳳を引き連れて旅に出てしまった父・真一郎の跡を継ぐ花穎(かえい)と、同じく鳳の跡を継いで執事の座に就いた元フットマン・衣更月(きさらぎ)のコンビが、刑事事件と日常の謎の中間くらいのイベントにあたる…という大筋の連作短編となっている。
おもしろい設定かなとは思うのだが、ただどうもキャラクターを好きになれなかった。衣更月はできる執事として描かれるが、「仕事」はできても執事としての魅力が弱い。その前にそんなに仕事をできている印象も受けない。それなのに彼の態度はどうにも横柄なのである。
この主従は、二人ともが新米で発展途上というところがキモなのだと思う。互いに半人前だからこそ、まるで鏡のように自分と相手の不足を見つけられるのだ。花穎は自分の未熟さに自覚的である。衣更月のことを疎んじ、鳳を恋しがりながら、それでも認められる主人になってやるという向上心と気概を抱いている。
一方、衣更月が自分の落ち度を考えるときそれはいつでも鳳という師との比較になる。花穎自身のことを顧みるつもりがまるでないのだ。花穎を「クソ餓鬼」と軽んじ、自分が彼より優れているとさえ思っている。花穎の器の大きさに比べて、この衣更月の傲慢さたるや。
この人物は一体なんのために執事をやっているのだろう?まあ、それがわかっていないからこそまだ半人前な訳なのだろうが、どうにもこうにもこの衣更月にムカついてしまった。執事もの呼んで執事にムカつくだなんて、最悪である。

ミステリ要素はと言えば、これまた可もなく不可もなく、といったところ。
花穎の特異体質が謎解きの鍵になるのは探偵ものの王道で、おお!と思ったのだが、しかしどの話もどこか決定打に欠ける。事件解決というよりその背景を描きたがっている作品なのだと思うし、そういうミステリは嫌いではない。ただ、そこで勝負するには描き込みが甘く、キャラクターの表層的な描写に頼りすぎているきらいがある。ライトノベルに毛が生えた程度、というのが正直な感想である。
この短篇集を導入に置いたがっつり長編がくればまた印象は変わるだろうし、続刊はこれよりやや良い評判なので追っていけば楽しくなるのかもしれない。どんどん面白さを増していくシリーズものは言わずもがなすばらしいが、ただ1巻目で心を掴まれないことには続きが読めないからなあ。悩むところである。
13歳の自分に「君は何年経っても高里椎奈にハマれない」と伝えてあげたい。おとなしく、2年後に出会う『ジーヴスシリーズ』読んでおきなさい。

※イギリスのパブリックスクールは良家子女のための私立学校で、社交性を重んじる。いくら優秀であっても一人だけ大学入学資格試験を早く受けるなんて事例は聞いたことがないし、特に非イギリス人の留学生がそんな優遇を受けるのはほぼ不可能に近いと思う。そもそもイギリスの大学はほとんど飛び級を受け入れないし、外国人がパブリックスクールに入学するには在英の保証人ガーディアンの推薦が必要だし…みたいな現実的なことを考えてしまう人間はひっかかるのでご注意を。イギリスで気ままな研究に没頭していた弱冠18歳のぼんぼん当主設定に萌える方には無問題。

現在進行中
春日武彦『様子を見ましょう、死が訪れるまで』
山田風太郎『甲賀忍法帖』
神々廻楽市『鴉龍天晴』

平田オリザ 『幕があがる』 講談社文庫、2014年

幕が上がる
読了:2015年1月31日

大阪大学コミュニケーションデザインセンターの先生と個人的に知り合う機会があり、それを機に『わかりあえないことから』を読んだのが昨夏のこと。演劇に関して何の教養も知識もない人間にとってすら、ものすごく納得のいく演劇、ひいてはコミュニケーション論が展開されていて深い感銘を受けた。
平田作品をまた何か読みたいなと思っていたところ、ちょうどももクロのかわいらしい写真がかかった本書を発見!小説であることに驚きつつも期待値はしっかり高かったのだが、そんなハードルを大きく飛び越えていく、気持ちのよい作品だった。

やる気が全くない訳ではない、でもそこまで真面目な訳でもない、そんなとある高校の演劇部の部活ものストーリーである。
演劇強豪校で主役を張っていた転校生・中西と、大学演劇で名を馳せた元女優の新任顧問・吉岡という二人の存在が、くすぶっていた部員たちの情熱を刺激する。お芝居がなんとなく好き、という雰囲気から、魅せる作品を、勝ち上がれる作品を作りたいという雰囲気へと変わっていく部の様子が流れるように描かれていく。
そう、この作品の最大の魅力は「流れ」にあるのだと思う。
全編が部長・高橋さおりの一人称で語られるのだが、そのフランクさの裏におそらくものすごく緻密な計算があると思わせるような文章なのだ。部員をまとめる立場としての客観と、ものづくりをする当事者としての主観、彼女らを取り巻く環境の説明、演劇やモチーフについての考察…すべての要素が、春夏秋冬の時間軸の中に完璧に収まり、ひとつの物語を織り成している。
もちろん、さおり達がどこまで勝てるのか、本番は成功するのか、という部活もの定番のハラハラも、読者にページを繰らせる一因である。しかしそれ以上に、さおり達とこの鮮やかな日々を過ごしていくのがただ楽しいし、ワクワクするのだ。キャラクターと読者の同調性がものすごく強いと感じた。物語を体験しているような感覚すらある。まるでほんとうに、間近でお芝居を見ているように。

さおりと、演劇部メンバーの間はすこしふしぎな距離感がある。しかし、メンバーは皆さおりのことが大好きだし、彼女の演出あるいは脚本に大きな尊敬を払っている。吉岡という華が傍にいるためか、さおりがそれに気がついていないのがどこかおかしく、またそんなさおりがかわいくて仕方ない。
自分には耳目を集める才能がないと思っていて、でも演劇を何にも代えがたい「宝物」だと思っている。
好きだから、打ち込める。好きだから、やる。好きだから、もがく。
まっすぐなさおりの姿は、部活もの主人公にふさわしくキラキラ輝いている。
そのきらめきが宮沢賢治というこれまたまっすぐすぎる巨星の光と呼応して、美しいプリズムを見せてくれるのである。

蛇足ながら、ひとつものすごく萌えたシーンを。

私はユッコの横に座った。ユッコはそのままの変な姿勢で、
「ありがとう」
と言った。
「え、なにが?」
「言いたい台詞ばっかりだよ」
「言ってるじゃん」
「もっと言いたい。死ぬほど稽古したい」
私はユッコの頭を撫でた。

あああ…なんという……かわいすぎか!?
平田オリザという天才はこんなことまでできるのか。完敗。映画観に行きます。

現在進行中
春日武彦『様子を見ましょう、死が訪れるまで』
高里椎奈『うちの執事が言うことには』
山田風太郎『甲賀忍法帖』

壁井ユカコ 『NO CALL NO LIFE』 角川文庫、2009年

NO CALL NO LIFE読了:2015年1月30日

ラノベを読み始めてから、壁井ユカコの名前は何度となく複数の人の口から(そしてAmazon先生のおすすめから)聞き及んでいたがなかなか読む機会を作れずにいた。先日、暇つぶしに入った店でたまたま本書を見つけ、立ち読みした藤田香織の解説に惹かれていざ尋常に壁井作品デビュー。
なぜか横書きの目次に並んだ各章のタイトルはJ-POPの歌詞のような感じもあって、大丈夫かな?と思いながら読み始めたのだが、あれよあれよという間に引き込まれて、とにかくもうめちゃくちゃ揺さぶられた。なんだこれ。すごい。

両親のいない孤児で、従兄と二人暮らしを営む女子高校生、有海の17歳の夏を切り取ったストーリーである。
始まり方は少し不穏だ。有海の携帯電話に、かかってくる筈のない電話番号から度々着信が入り、更に見も知らぬ小さな男の子がその電話にちょっと物騒なことを言ってくる。その謎の調査に出かけた先で有海は不良少年・春川と出会い、物語が動き出すという展開。
有海と春川が少しずつ距離を縮めていく中で、やがて互いの気持ちは臆病な恋になり、更に分かちがたいほど唯一無二の想いになっていくのだが、二人の気持ちの変化に呼応するようにふしぎな電話の謎も解かれていく。
存在し得ない電話の相手というモチーフは、乙一の『きみにしか聞こえない Calling You』を彷彿とさせるが、有海は電話に対してひどく醒めた態度を貫く。あり得ないと否定することもないかわりに積極的に解明しようともしないし、着信にも通話にもそれほどテンションを上げることがない。ただ、この電話がなにか特別なものであることは理解している。SF要素をこんな風に使うのは、有海の淡白なまでの受動性がストーリー全体で演繹的に演出されているようで、非常におもしろく読んだ。

有海は一見おだやかな少女だ。適度な親密度の友人に囲まれ、高校生らしい片想いを抱え、特技や才能があるわけでもなく、平々凡々の毎日をふわふわ生きている。しかし、彼女の言動の随所にはなんらかの欠落感が漂う。
たとえば、一匹のはぐれ蛍を見つけ追いかけるシーン、蛍を見失ったあと有海は思う。

追いついて捕まえたとしてもどうしようもないから、追いつけないままでよかったかもしれない。追いつけないほうがいつまでも遠くを見ていられる。

大人の姑息な割り切りや幼児の無邪気な情熱、どちらにも属さないこの有海の感覚は、十代の少女の多くが痛みとともに共感を覚えるものではないだろうか。愚かで拙く、けれど得難く尊いこの少女性は全編をまっすぐ貫いており、その生々しさに何度も胸をえぐられる思いがした。

有海と春川の恋愛は、紡木たく『ホットロード』の和希と春山のそれにも少し似ている。親に恵まれなかったためにどうやって愛を形作ればいいのかを知らず、ただがむしゃらに寄り添うことしかできない。自分を傷つけながら誰かを傷つけて、苦しさや痛みに気づかない振りをしながら自分を守ろうとしている無力な子ども。運命と呼ぶには静かすぎる出会いで、愛と呼ぶには幼すぎる二人だったのだ。
有海と春川の傷だらけの人生が交差する先に、ハッピーエンドはない。しかし、本書を読み終わったに残るのは絶望感ではない。心をえぐられきって、余計なものをすべて削ぎ落とされて初めて見える何かを、そこに見いだせる気がする。

現在進行中
春日武彦『様子を見ましょう、死が訪れるまで』
平田オリザ『幕が上がる』
高里椎奈『うちの執事が言うことには』