美奈川護 『キーパーズ 碧山動物園日誌』 メディアワークス文庫、2013年


読了:2014年7月2日

美奈川護というペンネームにキーパーズというタイトルがいかにもな「ラノベ」感を出していて、正直どうかなと思っていたのだが、蓋を開けてみれば地に足のついた動物もの小説であった。うん、これならいける。ラノベ修行者に優しいラノベだ!

ヒロインの理央が小学生にしか見えない大人…いわゆる合法ロリで、不思議ちゃんで、主人公・ハルをあれこれ振り回す、というラノベ定型をしっかり踏襲している。読むたび思うのだが、このパターンってそれほどラノベ読者からの支持を得ているんだろうか?非ラノベ読みからしてもはっきり言ってもう飽き飽きなんだが、諸兄はそんなにロリっ子がいいのか??
それと、やや暴力的で言葉遣いの粗いツンデレ美人…これももう食傷気味!

さておき、理央が不思議ちゃんである所以は、動物と会話できるという彼女の異能に端を発している。
ソロモンの指輪という伝説になぞらえたその能力と、動物園での飼育業務を意味づける哲学は相反するものだ。この対比がもう少し深く掘り下げられていればよかったのだが、どうも前者が都合の良いチート能力としてしか機能していないのが惜しいな、と思った。
何を考えているのかわからない動物たちの声が理央によって代弁されるのが物語のクライマックスなのだけれど、その演出を寒いと感じるか感動的と感じるかは個人差だろうなあ。

全体の構成は、ハルの周りの飼育員とその担当動物にそれぞれスポットを当てていくという連作短編。一話一話の完成度は非常に高い。思わず動物園に行きたくなってしまうほど、園内で飼育される動物の生を豊かに描いている。
何かの新書で、そもそもzooはzoologyに即する学術的研究を目的とした性質を持つものであったが、日本語で動物「園」と訳されたことで娯楽施設としての在り方が求められるようになってしまった、という話を読んだことがある。
確かに、リンゲルナッツも「動物園の麒麟」で動物園を文字通りの檻だと解釈しているし、閉じ込められてかわいそうという気持ちが湧くのにも一理ある。
しかし、この作品はそういうセンチメンタリズムと一線を画し、動物園の社会的責任を主張している。そして、その冷静さの裏に、アムールヒョウに惚れぬいているハルを筆頭に、登場人物たちの動物への強い愛情が描かれている。このバランスが非常に優れているので、恐らく動物園必要派も動物園かわいそう派もどちらも快く読めるだろうと思う。
こういった、何かに肩入れしすぎない視点で語られる物語はただそれだけで好感度が高い。

理央は何者なのか、三園はなぜ碧山を去ったのか、等の全体を通して解かれていく謎要素にはそれほどおもしろさを覚えなかった。
しかし、動物飼育のあるべき姿の模索というテーマが、アムールヒョウという孤高の存在と照会されながら最後までぶれずに一貫されており、読み終わったあとの満足感は充分。
なんだかシートン動物記やジェラルド・デュレル、日高敏隆あたりを読みたくなってしまった。

和田竜 『のぼうの城(下)』 小学館文庫、2010年


読了:2014年7月1日

上巻を読んだ時、あまり身が入っていなかったというのと、もともともハードルが非常に低かったということで結構好評価な感想を書いたのだが、下巻を読んであれ、こんなんだったっけ!?と悪い意味で驚いた。
戦が始まれば話にも本腰が入るだろうと思って楽しみにしていたのに、まるでレッジェーロとでも言わんばかりの軽さで最後まで駆け抜けてしまった。これを、「初心者にも易しい時代小説」と解釈するのはいかがなものか…。

戦は、それが史実であれ虚構であれ少なからぬ人が死ぬ題材である。だからこそ、その死をいかに描くかが問われると思う。勧善懲悪の枠に当てはめ、嫌な奴は死に、良い奴が生き残る、という形にしたのでは稚拙だ。この作品では、その処理があまりにもあっさりしすぎている。
折角のぼうという奇特なリーダーシップを持つ型破りな人物を主人公に据えているのというのに、そして上巻まるまるを周囲人物のキャラクター描写に割いたというのに、下巻では結局彼らの「戦」での強さだけがフォーカスされたにすぎない。それが本当に残念だった。

他の方のレビューを読んでいると、「のぼう様を好きにならざるを得ない」という声が多かったのだが、個人的にこの人物は怖すぎて好きになどなれそうにもない。自分が撃たれることで周りを奮起させようだなんて、そんな発想をしてしまうリーダー…末恐ろしい…。
彼の言動が策略から出たものであるか、天然なものであるかは最後までわからない。作者は恐らく後者の印象を与えたかったのだろうと思う。しかし、どうもそのあたりが中途半端で、読んでいてそのわからなさを気味悪さとしか感じられなかった。

戦いの描写は(よく言えば)テンポ良く、次々に策がはまってのぼう側が鮮やかに勝ちを上げていくのを快感だと感じる読者もいるだろう。
しかし、戦争小説に求めるものが娯楽としての戦ではない以上、そのスピード感は単にご都合主義にしか思えず、言いようのない後味の悪さが残った。
上巻で褒めておきながらなんだが、文章もよくよく読めばうーん…というレベル。
読み進めながらどんどんテンションが下がっていってしまった。

とりあえず風野真知雄も同じ忍城水攻めを取材した作品を描いているので、そちらも読んでみたい。

尾上与一 『二月病』 蒼竜社(Holly NOVELS)、2012年


読了:2014年6月26日

この6月は、同性愛を扱う作品を偏って読んでいたような気がする。嗜好を別としても、かなり当たりが多かったのだが、その中で恐らく最も心を揺さぶられたのがこのBL小説。
色々な所で、すごい作品だという噂は漏れ聞いていたのだが、よもやここまでとは…。
高村薫すら彷彿とさせる、読んでいて胸を突き刺されるような純度の高い想いと想いのぶつかり合いを描き切った傑作である。

主人公は、高校生の千夏と蒼司。挿絵でわかるように、タイプは違えどふたりともかわいい美少年だ。しかし、所謂BL作品に見られる甘さを期待すると心が折られる。ふたりの恋は、文字通り命がけなのである。
物語は、高校卒業を目前に控えた蒼司が千夏に想いを告白するところから始まる。千夏は、親友としては好きだけど気持ちには応えられない、と優しく拒否するのだが、彼の想いはこの時点で既に自覚のない恋だ。

蒼司の横顔は、月の青にとても似合っていた。(中略)たぶんこういう顔つきが自分は好みなのだろうと千夏は思う。

一年のときに蒼司が編入してきてから、仲良くなってずっとつるんで、こんなに何もかも上手くいく人間がいるのかと思うほど蒼司に惚れきっていた。

蒼司が大切で、今すぐ顔が見たくていちばん先に話を聞いてほしくて、とりあえず抱きつきたくて、重みを預けたい。髪をこすりつけたい。蒼司意外に自分の隣は考えられない。

ここまでの想いを持っていながらそれでも千夏がそれを恋愛感情と認められないのは、彼が「満たされた」環境で育った子どもだからだ。千夏が漠然と描く幸せの形は、どこかにいるともわからない理想の女性との円満な関係という幻想を元に成り立っている。色々なものを、苦労せず手に入れてしまったがゆえに、千夏は幸せに対して近視眼的なのだ。そして、だからこそ、同性同士が恋愛するという可能性を受け入れることができない。それを選び取れば千夏がほんとうに求めているものがすぐ手に入るというのに。

しかし、そんな千夏の足元が揺らぐ事件が起こる。あまりにも唐突な展開なので、最初はびっくりさせられるのだが、読み進めるうちにそんなことはどうでもよくなってくるのでご心配なく。
この事件をきっかけに、千夏はいつでも傍にいると信じていた蒼司を喪うかもしれないという事態に直面する。
そして、初めて、ようやく、狂いそうなほどの自分の恋情に気がつくのだ。

なにしろ事件が事件なだけに、ふたりの命は果たしてどうなるのか、という本筋だけも充分読み応えがあるのだが、なんといっても差し迫った状況の中で千夏と蒼司がむき出しにする想いがとにかく圧倒的なのである。
好きで好きで、でも好きな気持ちは美しいばかりではなくて、でも止められなくて、制御を失ってひたすら相手に向かっていく想い。その重みを決してなくさず、しかし驚くべきリーダビリティと美文で綴る、尾上与一という作家のテクニックはあまりにも見事だ。
BL小説らしく濡れ場もあるが、これがまたなんとも言えず痛くて美しい。「愛じゃなければ無理だと思った。」なんて言われたら、そりゃ泣いてしまう。

エンディングには賛否があるかもしれない。こういう結末を迎えるBL作品は他に類を見ないし、「BL」を期待している読者の望む形にははまらないからだ。
しかし、それでいいのだと思う。愛にまっしぐらな千夏と蒼司が我々の手の届かないところへ走り去る後ろ姿を、割り切れない思いで見送る。それが、この作品の読者に課せられた責務だからだ。
あまりにも叙情的なこのふたりの想いのやりとりを、いつまでも忘れられそうにない。読者は皆きっと、この「二月病」に罹るだろう。

松崎有理 『あがり』 東京創元社、2011年


読了:2014年6月14日

見城徹は言った。
「感想は、その場で言うのが一番いい。」
しかし、8週間経ってしまったものは経ってしまったのだ。という訳で、久方ぶりの投稿に開き直ろうと思う。

この半年間、ともすれば一大ブームとなり得たであろう「リケジョ」がみるみる凋落していくさまは見るに忍びなかった。リケジョであることがある種のセールスポイントとされているこの著者の作品を読むことにすらいささかの躊躇すら覚えたほど。
しかし、読んでみたいものは読んでみたかった。そして、読めば世事など関係なくなるということもわかっていた。
読了後、作品の面白さを計るものさしにリケジョだなんだを持ち込むのはやはり作品に対する冒涜だと再確認。
今まであまり味わったことのない感覚を得る読書体験となった。

『あがり』という題名が何を意味するのか全く想像がつかなかったというのがそもそもこの本に興味を抱いたきっかけだったのだが、表題作を読んでその巧みさに驚いた。なるほど、確かにこれは「終わり」でも「勝ち」でもなく「あがり」という言葉が相応しい。
収録作はすべて同じ大学を舞台にしながらもそれぞれの話が異なる意趣によってSFに仕立てられているので、飽きずに読める。確かに力量のある作家であることは間違いないだろう。ハッピーエンドともアンハッピーエンドとも言えない落とし込み方は、大学という空間をなにか特別な物語の舞台装置にしてしまう効果抜群だし、なんとなくそこらへんにいなさそうでいそうなキャラクター造形も鮮やかだ。
松崎流のSFは、厳密なScience Fictionというより、Scienceを背景にしたすこしふしぎ、という感じがする。この感覚は斬新で、一冊読むのに苦労は感じなかった。

しかし、読み終わってみると、なんとなくテンションというか空気が合わなかったなあという感想になってしまう。
例えば、頑なにカタカナを使おうとしないそのポリシーにひっかかるのだ。
登場人物の名前には「アトリ」や「イカル」や「ミクラ」等と些かラノベチックな響きさえあるのに、「バス」という単語を使おうとしないのはなんなのだ?それがこだわりであるのかもしれないが、例えば読者の脳内で「小判型じゃがいも揚げ」がコロッケだとつながるまでの時間、物語の流れは停滞してしまう。そして、その停滞は緻密に意図されたものだとは感じられず、婉曲な言い回しでわかりづらいというフラストレーションを生むに終わる。物語の本筋・本質とあまり関わりのない美学を読者に強要する書き手に対して、あまりいい印象を抱くことはできない。
それから、性への視点がどこか冷静で科学的なところも、面白いと言えば面白いのだけれど、あまりにも慣れないものだからやや戸惑ってしまった。

人を文系・理系で分類するのは好きではない。けれど、生育してきた環境・文化の差異は確実に存在する。
まるで違う世界を見ながら生きてきた一人の作家と一人の読者の人生が、こうして読書体験によって交差するというのはほんとうに得難い経験だなあと思う。そして、そんな経験を積めば積むほど文学的寛容は高まっていくのだろう。
豊かなアイディアを持つこのような稀有な作家を、ただ「合わない」という理由で敬遠するのは勿体なさすぎる。
絶対またいつか、読んでみよう。そして、次こそは忌憚なく「面白かった」と言いたい。