先日、三谷幸喜×NHKの人形劇『シャーロック・ホームズ』が最終回を迎えた。
15歳のホームズとワトソンが同室の全寮制学園ものとか、三谷幸喜は新選組だけでは飽きたらずま~たこういうことやってからに…と理不尽に憤っていたのだが、でもまあ据え膳食わぬはオタクの恥、ということで実際のところかなり楽しんで観ていた。
思えばホームズを偕成社の全集で読破したのも早20年前…当然のごとく忘れている設定、キャラクター、話も多かったので、人形劇の元ネタ復習も兼ねて久々に再読してみた。
折角なので最新の日本語訳を選んだのだが、現代風で非常に読みやすく、記憶とは違う印象を受けたものの個人的にはかなりアリ。
ドイルあるいはホームズシリーズを語る上で、作品の時代性は避けて通れない要素である。この長編も例に漏れず、世紀末のイギリスの世相がまざまざと表れていてめちゃくちゃおもしろかった。逆に言えば、植民地支配やレイシズムのなんたるかを知らなかった小学生の自分がこんな物語を読んで、無意識的にどんな影響を受けていたのかと思うと恐ろしい。
筋を追ってみると、とあるインド人藩主の私財をとあるイギリス人含む四人組が強奪する→藩主のスパイの密告によって四人組は投獄され終身刑に→囚役中に出会ったイギリス人の軍人と同盟を組み、脱獄と財宝山分けの取引をする→イギリス人の一人が裏切る→四人組の一人が復讐に燃える、という事件の背景が見えてくるのだが、おわかりの通り、ここに出てくるイギリス人、全員がクズだ。
偉そうに復讐とか言ってる方も泥棒だし、同じく泥棒の裏切った方など、厚顔無恥に美術愛好家を自称して優雅な暮らしを営んでいる。おまけに自分が裏切った仲間の娘にちょこっと宝石を送ったくらいで、義務を果たした善人面をしている。ひどい。ひどすぎる。
しかし、ドイルの筆はイギリス人のひどさを糾弾はしない。寧ろ、野蛮で非常識な「現地人」を登場させることで、イギリス人の言動を正当化しているきらいすらある。
しかし、話せばわかる白人、話の通じない現地人、というヒエラルキーをしっかり形成しておきながら、前者に属するホームズをあえて「異端者」として描いているからこそ、このシリーズはおもしろいのだと思う。
ワトソンにとって、ホームズはいっそ未知の存在だ。同じところにいて、同じ人と会っても、ふたりは違うものを見ている。ホームズとワトソンが同じイギリス人であるにも関わらず、ふたりの差異はかくもはっきりと示唆されるのだ。まるで、入植者と現地人のように。
では、ホームズはワトソンを蔑視しているか?あるいは、ワトソンはホームズを胡乱に感じているか?もちろん、答えはノーだ。
本書のふたりはほんとうに仲が良い。犬を駆って犯人をたどるシーンなど、まるでデートのようだ。ホームズはワトソンが結婚報告したら拗ねるし。
このような「異端」の存在に対するドイルのアンビバレントな態度を読み取るというだけでも、この作品は楽しめるのである。
今更ストーリーに対しては何を言うこともないのだが、今回読みかえしてみて、ホームズがとてもアクティブであることを意外に思った。本人はあまり動かず、ワトソンが収集したあれこれと膨大な知識を材料に沈思黙考しているイメージがあったのだが、実際は寝る暇も惜しんであっちへうろうろ、こっちへうろうろ。お蔭で場面転換がめまぐるしく、新訳の軽妙さも手伝って、映像作品を見ているかのような勢いで読めた。
ダゴベルトを読んだ時にも思ったが、やはりエンタメ作品で文学史に名を残すもののおもしろさは抜群である。あまり時間をおかず、また全作品読み返したいと強く思った。