剛しいら 『花扇』 クリスタル文庫、2004年


読了:2014年6月19日

今月読んだ本はなんだか普段より同性愛もの率が高く、しかも随分とアタリに恵まれている。この作品も然り。
剛しいらと言えば、肌色豊富でピンクなBLからシリアスな正統派JUNEから、作品の多彩さと水準の高さが売りの書き手だが、その巧さを存分に味わうことができた。
書き手が楽しんでいることが存分に伝わるなめらかな筆致に、いきいきという形容詞がぴったりのキャラクター、同性愛の持つ艶と陰を効果的に使ったストーリー。そして、これ以上ないというくらい作品の雰囲気と合った挿絵。
こういう非の打ち所のないBL作品の前に、読み手はただもう脱帽するしかないのである。
ちなみにいたく煽情的な帯がついているが、濡れ場はそれほど多くなく、またストーリーの流れ上「あった方がいい」濡れ場なのでご安心をば(?)

前作『座布団』と併せて落語家シリーズと冠された古典芸能BLである。物語を引っ張る主人公は引き続き要と寒也のカップルだが、今回は彼らの師匠であり、既に鬼籍に入った名人・初助の過去を掘り下げていく。
要と寒也は相変わらず砂を吐きそうな仲睦まじさ。しかし、寒也のもとに子どもが預けられたことをきっかけにその関係に亀裂が入る。理想の家族像と同性愛者である自分たちの現状との乖離に気付かされ、このまま身を引く方が互いのためではという迷いが生じる。このあたりは、JUNE系の作品にはあまり見られなかったリアリズム要素で、誰も悪くないし全員の心情がわかるだけになんとも切ない。※

傷ついた要が転がり込む先が師匠の初助なのだが、「男の一人やふたりさっさと忘れろ」とずばずば言うわりに、その態度は限りなく優しい。
飽くまでBLとして読むのであれば、寒也と要、初助と寺田というそれぞれの組み合わせを軸と言うべきなのだろうが、このシリーズの魅力は、それに加えて寒也と初助、要と初助という横糸がしっかり紡がれているところだと思う。
誰との間にも壁を作って決して自分のテリトリーに踏み込ませなかった初助が、子犬のように無邪気に真摯に自分を追いかける要を唯一の弟子と認め、公私でかわいがった。この師弟関係が基底にあるからこそ、この落語家シリーズのストーリー性は秀逸なのだ。

初助は狙った男を的確に射落とす魔性だが、この作品では彼がなぜそのような生き方を選ぶようになったのかがつぶさに語られる。淡々とした三人称が貫かれ、初助の内面をうがつような書き方ではないものの、その客観性がむしろ彼の歪んだ心理を見事に描き出している。
寺田との出会いが初助に何をもたらしたのか、それすら初助自身の視点からは語られない。
台所に置かれた夫婦茶碗を見た要の驚きに伴い初めてその愛の輪郭は現れる。
このあたりの小道具使いや初助との距離の置き方は、ほんとうにすばらしい。

正直なところ、落語家シリーズのキャラクターたちは個人的な好みのタイプからはだいぶ離れていて、カップリングもそれほど…という感じである。しかし、そんな読み手をも魅了する力がこの作品にはある。そしてそれは、萌えや過激さというわかりやすい派手な要素への偏重ではなく、トータルバランスの良さなのである。間違いなく、BL小説というジャンルの価値をいくらも引き上げる名作と言えるだろう。

※昨今話題になるシリアス系BLはとかくこのすれ違いをテーマにするものが多いように思う。ヨネダコウ『どうしても触れたくない』は特にその最たるもので、自分の恋の成就と、好きな相手の幸せの成就のどちらを取るかで葛藤するゲイが主人公だった。
ちなみに映画版は、正に紙面から出てきたようなビジュアルのキャストと原作の空気感をうまく切り取った画作りがうまく噛み合っていて、なかなかいい実写化である。

大山淳子 『雪猫』 講談社文庫、2013年


読了:2014年6月18日

狙った訳ではないのだけれど、連日で動物変身譚。そしてやっぱり猫。
グッバイ、マイドッグ』が予想を遥かに超えて良い感触だったので、勢いそのままに読んだのだが、なんとももやもやの残るストーリーで、読み終わったあとしばらく気分が落ち込んでしまった。

生まれてすぐゴミ袋に捨てられた白猫・タマオは、偶然通りがかった小学生の理々子に拾われる。それ以来、彼女に変わらぬ忠誠を誓い、恋慕を抱く…という大筋なのだが、ひっかかるのはタマオと理々子の気持ちに隔たりが感じられるところだ。
タマオの生活は、そのほとんどすべてが理々子に関わることで占められている。しかし、理々子にとってタマオはペットでしかなく、たとえば家族に話せない秘密の想いを吐露するわけでも、肌身離さず愛玩するわけでもない。
タマオが人間化したイケメンに対しては媚びるような女の顔を見せ、タマオという猫が捨て猫だった事実すら隠蔽しようとする。
格好良い男性にアピールするための小道具としてのペットの扱い。動物ものを読もうという気分の時に、こういうリアルなのはキツイのである。
タマオはそんな理々子に気づいているようで、でも気づかない振りをしているようにも見える。しかし、恐らくはっきりと自覚しても尚彼の理々子に対する想いは変わらないだろう。絶望的な一方通行だ。報われる可能性が一片もない。
だが、タマオのこの感情はほんとうに「恋」なのだろうか?恋を定義することが至難の業なのは百も承知だが、それを踏まえても尚この話を恋物語とくくることに、どこか違和感を覚えてしまうのだ。

タマオと理々子の他にもうひとつ重要な要素となるのが、黒猫・イヴとその飼い主花園の関係である。花園は最愛の妻を喪った過去から心を病んでいるのだが、イヴは彼を悲しみの淵より救わんと命をかけて奔走している。イヴの想いは、確かに恋らしい。それは、イヴがどこかしらで見返りを求めているからだ。自分の行動によって花園が立ち直ること。いつか花園と言葉を交わすこと。亡き妻の姿をしたイヴに向かって花園が愛を語ること。彼女のそういった願望は、なるほど恋だと納得できる。
それに比べて、どこまでも無償でいいと割り切るタマオには、残念ながらなかなか共感しにくかった。

タマオの偏った視点から語られるということもあるが、理々子の人物像は最後まで非常にぼんやりとしている。
『グッバイ、マイドッグ』でイチの一人称で描写される璃人(逆も然り)が魅力たっぷりだったことを考えると、タマオがなぜ理々子をそれほどまで愛するのかという説得力がイマイチ足りないように感じられた。

猫の人間に対する想いだけをエンジンに進んでいく物語である。
ただ、想いの純粋さは時にして無力だ。その無力さに胸を打たれるか、うちのめされるかは読者次第だろう。
猫がしあわせになる物語を読みたいのであれば、残念ながらお薦めはできない。切なさというより、虚しさが残った。

夏乃穂足 『グッバイ、マイドッグ』 ショコラ文庫、2014年


読了:2014年6月17日

このブログで散々取り上げてきたので、すでに猫もの好きなのはバレていると思うのだけれど、実はワンコものも大好物だ。
『ベルカ、吠えないのか?』『パーフェクト・ブルー』『セント・メリーのリボン』『雨はコーラが飲めない』『ベルナのしっぽ』等々、日本の作品だけでもワンコものの名作は枚挙にいとまがない。(犬猫の両方が登場する『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』なんて最高すぎて悶え転がってしまいそうだった)
フィクションで動物を主役に据える際、彼らの動物としての目線を貫くパターンと、人間への変身譚の2パターンがあるが、この作品は後者。
犬本来のかわいさ、面倒臭さ、頭の悪さ、健気さ、気高さ等のいろいろな要素を、人間化にあたってどう表現するか。変身譚においてはこれが作品の良し悪しを決める最重要ポイントだと思うのだが、イチの造形は完璧である。これはやられた。
BL小説レーベルから刊行されていて、勿論BLだしセクシーな濡れ場もあるのだけれど、決してポルノではない。こういう良心的なBLは、上質のエンタメとして楽しく読めるのでとてもいい。

孤独を抱えた同性愛者の璃人が、保健所で殺処分直前のイチを引き取る所から物語は始まる。
生きることは憎しみと飢えと痛みとの戦いだとしか思っていなかったイチは、璃人によって新たな生命を与えられ、そしてその生命をかけて璃人に愛情を傾けるようになる。
イチの生い立ちを考えれば、そんなにすぐ人間への恐怖心が消えるのは無理だろうとも思ってしまうのだが、「人間」の読者としては、イチの傷が癒えていくさまになんともいえないカタルシスを覚える。

璃人と出会ったことで、俺はずっとそうなれないだろうと思っていた自分、でも、本当はそうなりたいと切望していた自分に出会うことができたのだった。

ああ、犬が本当にこんなことを思っていてくれたならどれだけ飼い主は幸せだろう…。
イチというキャラクターは、犬っぽさと人間っぽさのバランスが非常に優れている。
犬としてはある種非現実的なご都合主義も、まるで人間のように璃人を愛するイチの心象描写によって、アリな感じがしてくるのだ。

人間化してからのイチはとにかくいじらしい。璃人に正体を明かすことができず、ただストーカーのようにつきまとうことしかできない。
イチは璃人をあまりにも強くひたむきに愛しているが、一方璃人は璃人でずっとイチを忘れられずに引きずっている。つまり、もうバカみたいに純粋な両想いなのだ。しかし、結ばれない。気づかない。
ハッピーエンドを信じて読んでいたからなんとか耐えられたものの、このヤキモキがとにかくもうたまらなかった。
何度「璃人のバカ!!そこにいるでしょ!目の前に!大好きなイチが!!!早く気づいてよ!!!」と思ったことか。
しかし、これだけ焦らされるからこそ、後に訪れる璃人の恋の自覚に胸が締め付けられるのである。夏乃先生、飴と鞭の使い方をよくご存知で…

BLを好む読者の嗜好や思考については、もっともらしい分析が多くある。
「現実ではモテない女性は、女性を排斥したホモソーシャルな関係の中に、自分が成し得ない理想の恋愛を体現しようとする」というのは特に頻繁に見られる言説で、その視野の狭さにはため息と苦笑を禁じ得ない。
しかし、この作品を読んで、確かにBLとは恋愛の理想形を描くものかもしれない、と思った。
それほどまでに、璃人とイチの恋愛は美しいからだ。
BLだとかファンタジーだとか犬と人間だとかそういう次元を超越して、互いに互いを必要とし、全力で愛し、守ろうとする…そんな関係性を真正面から描ききった作品として、たくさんの星をつけたい。
ふたりのしあわせをおすそ分けしてもらえて、お腹いっぱい。

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 『アブダラと空飛ぶ絨毯』 徳間書店、1997年


読了:2014年6月16日

前作に多大なる感銘を受けてから早二ヶ月、ようやく続刊に着手。
『火の悪魔』は冒頭からイギリス発祥のファンタジー世界観が色濃く、いかにもな舞台設定と、定石を裏切るキャラクターたちのマッチングがとにかく絶妙だった。
しかし、続編と言いながら今回の作品世界はがらりと模様替え。そのタイトルから想起させられるイメージそのままに、インガリーより遥か南方の中東チックなラシュプート国が舞台となっており、登場人物たちも一新。
ハウルとかソフィーとか出てこないんだ、とちょっと面食らったのもつかの間、相変わらずの話運びのうまさにそんなことはどうでもよくなって、ただただ貪り読んだ。
が、後半でそこかしこに仕掛けられたまさかの事実がどんどん明かされびっくり仰天。ファンタジーなのに、こんなミステリ的展開にしちゃうなんて反則だ!
訳者があとがきで、「DWJの物語ではすべてのキャラクターが最初とは違う姿で終わる」という旨の評価を紹介されていたが、まさに…と首肯。
こんなの、おもしろくないわけがない。

アブダラという市井に生きる青年が夢うつつに出会った夜咲花なる令嬢と恋に落ち、彼女と結ばれるべく奮闘する、という恋愛と冒険の王道ストーリー。ただ、王道なのにも関わらず、一筋縄ではいかない雰囲気を感じてやまない。これがDWJのDWJたる業である。
その意趣のひとつに、ラシュプート国の描き方が挙げられると思う。
ラシュプートは、決して実在の中東世界を切り取って作られたものではない。言うなれば、「イギリス人の目から見た中東文化」を基盤としているのである。オリエンタリズムは英文学者の中では一定の人気を誇る意匠だが、そこにあるのは往々にして辺境、異教、未開の地というあくまでカウンター・カルチャーとしての捉え方だけだ。
ところが、DWJはファンタジーという枠組みを使うことで、非イギリス的文化にまったく独自のアプローチを試みているのではないかと思う。
そして特にそれが顕著なのが、夜咲花のキャラクター造形だ。権力者の父親に、生まれた時から幽閉され世間をまるで知らずに育った、という初登場時の設定は、イスラム圏の抑圧された女性のイメージそのままだが、ストーリーが進むうちに、彼女の本質は真珠のようにきらめいていく。
誰よりも強い意思と信念を持ち、勇気と知性をして運命に立ち向かおうとする夜咲花は、どこからどう見てもDWJ作品の主人公以外のなにものでもない。ああ、いいなあ。好きだなあ。

非実在中東で始まった物語は、いつのまにかDWJがお得意とするいつものファンタジー世界にしっかり飲み込まれ、読者は彼女の思うがままに踊らされていく。ただ、踊り疲れてたどり着く先に、極上のハッピーエンドを用意してくれているのがDWJの憎いところ。
この作家はきっと、魔法が使えるのだろう。
あと一冊、完結編も楽しみ。

ジャネット・ウィンターソン 『オレンジだけが果物じゃない』 白水社、2011年

読了:2014年6月13日

常々、レズビアン文学ってぜんぜん市民権がないなあと思う。
レズビアンそのものがセクマイの中で更にマイノリティだという現実もあるけれど、とにかく同性愛文学と言うとワイルドや稲垣足穂のような男性x男性の耽美なイメージが先行する気がする。(そしてその流れでJUNEからBLという系譜が形成されていったのだろう。)
この作品のようなある種特異な形で女性の同性愛を扱う作品が日本読者のメインストリームに食い込む余地はまるでなさそうなのだが、それにしても看過されるにはあまりにも惜しい作品である。
とにかく力強い。ページを開いたが最後、荒波に揉まれるようにウィンターソンの筆力に翻弄され、恍惚を覚え、時にちぎられそうな痛みを覚えたり笑いをこらえきれなくなったりしながら、一気に読むしか選択肢はない。圧倒的という言葉が最もふさわしい作品である。

半自叙伝的ということで、ストーリーはとある少女の奇妙な半生を下敷きにしているのだが、これが実に要約し難い。
単行本のあらすじを引用すると

狂信的なキリスト教信者の母親と、母親から訣別し、本当の自分を探そうとする娘。イギリス北部の貧しい町を舞台に、娘の一人称で語られる黒い哄笑に満ちた物語。寓話や伝説のパロディもちりばめた自伝的小説。

ということなのだが、これでこの作品の魅力が伝わるかというと伝わらない。しかし、これ以上にまとめようがないのだ。
確かに、狂信的なキリスト教信者の母親によって偏った英才教育を施された主人公ジャネットが、成長の過程で世界の広さを知り、愛を知り、独立していく話、という解釈は間違いではない。しかし、ウィンターソンによって示される道筋はそれほど単純なものではない。
たとえば同性愛ひとつを取っても、そこに置かれるのはひとつの契機というだけの重きであり、作品の中核は別のところにある。決して、恋愛や運命の相手との出会いが悪しき母親からジャネットを救う、という美しいプロットではないのだ。
それでも、ジャネットの恋は痛烈だ。手探りでがむしゃらで拙いその恋の描写は、一級の恋愛小説にもひけをとらない。

ジャネットと母親(実は血縁のない里親である)の関係性は、傍から見ればおかしいものかもしれない。彼女たちの宗教への傾倒っぷりは、日本人読者には理解しえない域に至っており、その過激さに空恐ろしさを覚える人も多いだろうとも思う。
しかし、畢竟この話が描くのは、母と娘、人と神、恋する自分と恋する相手…それらのニ者関係がどのようにもつれ合い、絡み合ってひとつの人生を織り成していくかというテーマでしかないのではないだろうか。そして、その中に普遍性を見つけることはたやすい。

語り口は皮肉めいているが、幼少期の特殊な環境をユーモラスな読み物に代えられるウィンターソンの成長と慧眼を教えるに充分である。
ただ、この作品を著した時彼女がまだ26歳だったことを考えると、笑いにしなければまだ対峙できない過去だったのかもしれないとも思う。

優れた文学とその出自は関係がないと思ってはいるのだが、こういう作品を読んでしまうとやはりイギリスがいかに文学的に肥沃な国であるかということを痛感させられる。更に、岸本訳がまた文句のつけようのない完成度である。
悔しいが、一言で言って、パーフェクトな作品だ。

近藤史恵 『サクリファイス』 新潮文庫、2010年


読了:2014年6月12日

『ねむりねずみ』が消化不良に終わったのを見計らったように、連日『タルト・タタンの夢』の評判が目に留まるようになった。
しかし、この類の日常ミステリ短編集を見るとまだ例の暴力的なハズレ作の恐怖を思い出してしまうので、とりあえず復習でお茶を濁すことに。
初読時はまだ文庫本も出ていなかったので、おそらく5、6年振りになるのだろう。あの頃は、自転車競技について文字通り無知で、こんな世界があるんだ、と新鮮に読んだことを覚えている。
『弱虫ペダル』のお蔭で、自転車競技についての知識がにわかながら若干ついてきたこともあり、今回は目新しさという加点は見込めない。それをやや不安に思いながら読み始めたのだが、結果的にこの作品の地力を痛感することになった。

『ねむりねずみ』で苦言を呈したイメージ喚起という点において、この作品は特に秀でていると思う。
レースシーンよりも印象に残ったのは、主人公チカと伊庭が早朝のヒルクライムをする一場面。自身を過小評価して、ただ自由のために走りたいと思う主人公チカが、どれほど鮮やかに風をきって坂を下っていくのかが映像のように浮かぶ。
冒頭のこの描写で、この作品は競技やミステリというキャッチーさに目を奪われながら読むにはもったいない何かがあるということを確信した。
マシン、ルール、マナーそしてレースの雰囲気等、知らない人に競技の肝を伝える説明も、すばらしく簡潔かつ的確である。

ストーリーは、勝ちを求めないアスリートのチカが競技チームの中に入ることで生まれるゆらぎと、勝ちを求めすぎるエースの石尾にまつわる疑惑とが主軸となって進んでいく。
途中までは「こいつもう絶対ヤバい奴じゃん…チカちゃん逃げて!」としか思えない石尾の実像が、周りの人間の証言によってどんどん紐解かれていき、最後にはまったく異なる印象を与えてストーリーから去っていく。
チープなサスペンスものによくあるような、動機や真意を堰切ったように吐露する犯人とは対照的に、石尾は最後までかたくなに語らない。
なぜ語らないのか、それがわかったときにはじめて、読者はエースという人種の病的な性を理解するのだ。
その病こそがこの作品のミステリ要素を解く鍵なのだが、アスリートでもエースでもない我々が真相にいきつくのは難しい。このあたりの組み立ては『ねむりねずみ』とよく似ている。しかしここまで印象が違うのは、いびつな男女の愛憎よりも、勝負に魅せられた男の悲哀の方が個人的嗜好に合うというただそれだけの理由だろう。

キャラクター造形のうまさはやはり際立っている。競技チーム内の役割や、メンバー同士の関係性等がそれぞれのキャラクターにぴったり合致しており、フィクションならではの華やかさと、泥くさくてリアルな手ざわりの両方がある。
ただ、香乃と伊庭に関してはやや物足りなさが残った。まあ、伊庭みたいな傲岸不遜アスリートに大変な魅力を覚えるので、ストーリー上の要不要ではなく単に趣味の問題だけれど。

この記事を書くまで知らなかったのだが、この作品、なんとシリーズ化しているということで、また続刊も読んでみたいと思う。

川上弘美 『ざらざら』 新潮文庫、2011年


読了:2014年6月11日

十代の頃、恋愛小説読みの友人はだいたい江國派、川上派、ばなな派、唯川派に分かれていた。
もっぱら江國に傾倒していたもので川上弘美はあまり熱心には読んでいなかったのだが、今回この掌編集を読んで驚かされたのは、その頃から作品の雰囲気がまるで変わっていないことだった。
ほとんどの職業作家は、折にふれて「新境地」を拓くものだと思う。あるいは、そこまでの大きな挑戦はなくとも熟練や達観が少しずつ作品の色を変えていくものだと思う。(ちなみに江國香織は『間宮兄弟』がそれだった)
しかし、川上弘美の色はずっと、不可侵の透明なのである。

収録されているのはどれも短い恋愛話だが、たとえば『あられもない祈り』と比べてその恋愛観の軽やかなこと!
仲良し男女三人組でだらだらしているお正月にふと「この男の子と一回セックスしてみたいなあ」と思ってみたり、恋愛に奔放だった母を思い出しながら裸エプロンで料理をしてみたり、元優等生のお兄ちゃんが引きこもりのちいつのまにかホストになっていたり、冷静に考えるとバカバカしくてなにが文学だ!というような内容ばかり。
しかし、ふしぎとどの話もパズルピースのようにすとんと記憶の空きにはまるのだ。どうでもいいように見えたのに、忘れられない。
激しい共感を覚えたわけでも、むちゃくちゃな感動に襲われたわけでもないのに、こういう残り方をするのが川上作品の魔力なのだと思う。
日常をいかにさりげなくしかしあざかやに切り取るか、という技術・センスにおいて、この人の右に出る作家はいないだろう。

雑誌・クウネル連載ということもあって、よく食事や食べ物にまつわるシーンが出てくるのだけれど、まあよくこんなに美しく書けるものだとただただ嘆息。筒井ともみのようなビビッドで直接的な感覚ではないのだが、食が生と性につながるということをつくづく感じさせられる。
端的に言うと、「恋愛を失っても、食べてりゃ生きる」という価値観が根底にあるような。
全体の雰囲気はふんわりとどこか俗世離れしているのに、登場人物たちが意外としっかり日常(食のみならず)を生きているのがおもしろかった。

どの作品もそれぞれに良いのだけれど、食いしん坊の星江ちゃんが料理上手なちかちゃんを好きになって…という「桃のサンド」がやはり白眉。
桃というモチーフが星江ちゃんのほのかな恋を雄弁すぎるほど語り尽くしていて、とにかくすばらしい。
急速に仲良くなってからのふたりの微妙な距離感と気遣いがとてもリアルで、でもその感触は生々しいというよりみずみずしいのである。

恋愛は面倒臭いことばかりだ。
でも、この本は恋愛だって日常の一部なんだからあんまり深く考えすぎずにやってみるといいもんだよ、ということを教えてくれているような気がする。
初夏にぴったりのさわやかな一冊だった。

琴葉とこ 『学校に行かなくなった日』(コミックス) エンターブレイン、2014年


読了:2014年6月1日

漫画作品を取り上げるのは反則だということは承知だが、あまりにもすごい作品なのでどうしても一回感想を吐き出さずにはいられない!ということで本日は開き直って漫画のご紹介を。
コミックエッセイというジャンルで歌川たいじ『ツレちゃんに会いたい』を超える…というか、それ以上に泣かされる作品はもうないと思っていた。
甘かった。
帯に書かれたコピーを見た瞬間から予感はあって、これはくるやつかもしれない、と身構えて読んだものの、そんな覚悟が何の役にも立たないほどにどでかいパワーを持った作品で、読み終わった時には泣きすぎて目が半分開かなかった。
ただ、語弊のないように書いておくと、この漫画が「泣ける」のは例えば凄惨ないじめのシーンがあるからというような絶望的要因からではない。
琴葉とこという少女はあまりにも優しくて真摯で前向きで、読者はその姿に切なる愛しさを覚えるからこそ、彼女の痛みに共鳴して泣いてしまうのだ。

不登校は、子どもにとってあらん限りの意思表明だと思う。
作中で語られる「行きたいのに行けない。行きたいけど行きたくない。」という彼女の本音からは、不登校=いじめからの逃避あるいは学校嫌い、といった単純式を否定する複雑な心情が伺える。
なぜ学校に行けないのかは当事者にもわからない。だから、それを無理やり理由付けようとすることは、問題の解決にはならず、却って子どもたちの逃げ道を断ち自責の念を募らせるだけだ。
第三者はどうにかして不登校を「治して」あげたいと思う。しかし彼女の体験は、家族や周囲の人間にとって必要なプロセスとは、むしろその前の段階にあるのではと問いかけている。この訴えはまさに当事者にしか発することができないものだ。

学校に行っていない間、彼女はゲームに勤しみ漫画を読んでいたという。
興味深いのは、そこで選んだゲームが『どうぶつの森』だということ。(実際はもっと色々なタイトルがあったのかもしれないが、この作品で出てくるゲーム画面はどう森のそれだ)すなわち、彼女はゲームの中で小さな社会生活を営んでいたのである。
ゲームはバーチャルだ。思い通りに進められ、気に入らなければリセットすらできる。そんな理想の環境で、他の村人との触れ合いを中心とした世界に生きることが彼女にとっての癒やしと気晴らしと暇つぶしになった。
そこには、いじめられたから、ひどいことを言われたから他人なんてみんなどうでもいいという捨て鉢な人生観ではなく、なんとかして誰かとつながれないかという模索があるようにも思えるのだ。

そしてそう、漫画!
彼女の日々に光明をもたらしたのは漫画だった。
小学校の頃、同級生たちの前では口を閉ざし「誰もわたしを理解してくれない」と嘆いていた彼女がようやく見つけたコミュニケーションの手段が、漫画やイラストという表現だった。
何度挫折してもどれだけ心がこじれても、彼女はきっとどこかで他人とわかり合いたい、誰かと親しくしたい、と渇望していたのではないだろうか。そして創作は、他人とのつながりをもたらすものであると同時に、彼女にとって自分自身との対話を可能にするものだったのだと思う。
作中ではそれを「紙に気持ちを閉じ込める」と表現していたけれど、それは紙の中に気持ちを解き放つことと同義だったのかもしれない。
琴葉作品の最大の魅力は、やはりその絵にあると思う。『メンヘラちゃん』でも顕著だったが、一本一本の線に体温を感じるのだ。巧拙を超越する彼女の技法がいかにして会得されたのかという背景を知り、その魅力を改めて感じさせられた。(ちなみに勿論絵は巧い。)

漫画は希望のメディアだと思う。
落ち込んだとき、迷ったとき、ムカついたとき、漫画以上によく効く強壮剤はなかなかない。小さなコマには無限の可能性が広がっているのだ。琴葉とこという驚異的な漫画家は、その可能性の種から花開いた。そして、そんな彼女の描く漫画は、今不登校で悩んでいる子どもや、かつての当事者、そして大多数であるその他の人たちに新しい種を与えるだろう。

折しも、有害図書だのなんだのという言いがかりを元に、国をあげての漫画焚書キャンペーンが実施されんとしている。笑止千万である。
なにもかも、誰もかれもが決められたレールの上をまっすぐ歩いている、なんてのがいい社会ではない。
学校に行けなくなったって、友達と相容れなくったって、探していればいつかどこかにまた居場所はできる。この作品は、そんな希望をまるで押し付けがましくなく教えてくれるのだ。
日本よ、そして世界よ、これが漫画だ。

加藤シゲアキ 『閃光スクランブル』 角川書店、2013年


読了:2014年6月5日

水嶋ヒロの『KAGEROU』が読んだ人からも読んでいない人からも滅茶苦茶に批判されたのを考えると、作家・加藤シゲアキに対する世間の目は優しいなあと思う。事務所という後ろ盾の力はこういうところにも及ぶものなのだろうか?
しかし、渋谷サーガというくくりで作品を書き続けている彼の積極的な作家活動はそれだけで水嶋ヒロとの差を感じさせる。
前作を未読なので比較はできないし、アイドルとしての加藤シゲアキがどういう人物なのかも存じあげないので、この作品をどういうスタンスで読もうかやや迷ったのだが、まあ読めばわかるだろうということであまり考えずに挑んだ。
ひとつだけ不利に働いた個人的要因があるとすれば、前後に読んだ作品が島本理生と葉室麟だったことだろうか。
ラノベとミステリでサンドすればもう少し甘い採点になったかもしれないが、そこはひとつ運がなかったということで。

ストーリーは凡百な携帯小説と似たり寄ったりで、それほど面白いとは思わなかった。
仕事と恋愛の両立。理想と現実の衝突。自尊と自傷の混在。どれも使い古されたテーマで、目新しさには欠ける。しかし、文章はどうしてなかなかこなれているし、読者に「読ませる」流れの力強さがあることは確かである。
全編を通して、明るい装幀とタイトルからは想像できないくらい沈みこんだトーンが貫かれるのだが、主人公・巧とその悪友たちの会話シーンだけが不釣合いにライトなのが気になった。口調はくだけているのに、描かれる彼らの様子はちっとも生き生きしていないのである。
もう一人の主人公・亜希子とその愛人・尾久田との会話も然り。彼らのつかの間の恍惚を演出すべき言葉が、どうしても地の文の暗さに引っ張られてしまっているような印象を受けた。
一方で、亜希子と彼女の幻影・ジャックとのやりとりは緊迫感と痛々しさがあり、亜希子というキャラクターをぐっと深めている。

人物の描写も悪くはないのだが、あと一歩踏み込んでくれればという思いが残る。
巧と亜希子に関しては筆を多く割いていることもあってそれなりの手応えがある。しかし、日本を背負って立つような俳優の尾久田と逢瀬を重ね、彼に愛されていると盲信しながら、アイドルとしての自分の価値を常に疑い続け、はたまた所属グループのセンターに選ばれなければ激昂する…そんな亜希子の、自分自身に対する屈折した感情をもう少し丁寧に描いてほしかった。
ファンのために、ファンが言うから、ファンに愛されたいからという理由で自分の身体を傷つけるようなストイックさをもつ少女が、いとも簡単に不倫関係に踏み込んで自分を見失ってしまう。それが尾久田に「惚れた」という単純な動機でしか描かれないのが不自然な気がするのだ。
小林の噛ませ方は巧いと思ったが、他のMORSEメンバー(特にリリィ)は完全に亜希子の言動をお膳立てする小道具的キャラクターに終始してしまっており、造形が良いだけにもったいなかった。

随所に盛り込まれる音楽、映画、写真の小ネタからは背伸びしたいんだなあという感じが伝わってきて、かわいらしくはあるが小説の演出としては拙いと言わざるを得ない。作品名や人名を繰り返し出し、歌詞を引用して「彼女は○○が好きだ」というだけなら、SNSのプロフィール欄と同じことだ。
それらの作品がキャラクターを通過してどうアウトプットされるのか、そのさまを描写することが小説家の腕の見せ所だろう。

芸能界ものには、栗本薫『真夜中の天使』や金原ひとみ『ハイドラ』柴田よしき『ミスティー・レイン』など傑作が多くある。
この作品で加藤シゲアキが描きたいものの輪郭と方向性はしっかり見えたが、他の芸能界ものと一線を画す輝きはまだ鈍い。

おそらくこの日本でこの曲を知らない人間はほとんどいない。もしいるのなら、それは吉本もジャニーズも知らないような、世俗を離れた人間だけだ。

これを当然だと思う暴力的なマジョリティの世界から、もう少し辺境へと視野を広げることができれば、作家としての雄飛も期待できると思う。
がんばれアイドル!

島本理生 『あられもない祈り』 河出文庫、2013年

あられもない祈り
読了:2014年6月4日

刊行当時、各所で絶賛されていたのを記憶している。売れている恋愛小説を楽しめたことがあまりないので、タイトルだけ書き留めてそのまま忘れていた。
今回読んでみて、100%の恋愛小説はやはり、自分の生き方とは相容れない部分が多々あるということを再確認したが、一方で、文学作品としてのその美しさに圧倒された。
おおまかな筋は『ナラタージュ』とほぼ同じようで、二人のタイプの違う男性の間をふらふらする女性の主人公が描かれるのだが、島本理生の作家としての世界は確実により深化しているのだと感じさせられた。

ストーリーを語るべく書かれた作品ではない。かと言って、人物描写に偏重している訳でもない。解説で西加奈子が言うように、この作品が描く真核は「恋する個々の人びと」ではなく「恋そのもの」である。だから、恋愛小説に、男女が惹かれ合って求め合って障害を乗り越え結ばれて別れて…というような恋愛行動を期待する読者が、肩透かしをくらうのは当然だと思う。(それにしてもAmazonの評価は低すぎるが)
でも、だからこそこの作品は「至上」なのだ。可視化される恋愛行動というわかりやすさを敢えて放棄することで、恋愛の本質に肉薄しようとしている。

恋を定義できる人は幸せだ。
この作品に登場する恋人たちは皆、恋がわからずにいる。しかし、恋は必ずそこにあって、彼らの生活と精神に著しい影響を及ぼす。
主人公の独白に、こんな一節がある。

私はいつの間にかあなたの感触を思い出していた。あなたが触れた、その余熱だけで今なら世界中の誰とでも寝られる気がした。たしかに自分があなたを愛していることに気付いた。

一見このロジックは破綻していると言えるだろう。この破綻こそが恐らく恋なのだ。
そして、ロジックの破綻という書き物のタブーを文学作品たらしめているのは、一人称と二人称が入り混じる文体に、自己と外界の境界線をあやふやにする筆致という、島本理生の精緻な技なのである。

すっきりする結末ではないし、ストーリーの表面だけすくいとれば、だから結局なんだったんだよ、という感想で済ませてしまえる作品だとも思う。しかし、この手ざわりはあまりにも得難い。あられもない傑作恋愛小説に出会ってしまった。