和田竜 『のぼうの城(上)』 小学館文庫、2010年

のぼうの城
読了:2014年5月29日

単行本が刊行された時、おもしろそうだけどオノナツメだしなんかちょっと胡散臭げだなあと思い、文庫本が刊行された時、結構話題になってるけど大衆受けしてるってことは軽めなんだろうなあと思い、結局上巻だけ買って四年間も積んでいた。
まあどうせアイディア勝負の一発屋だろう等と散々失礼千万な偏見で見ていた和田竜は、今やすっかり書けば売れる人気作家になり、この作品も野村萬斎で実写化と相成った。
つくつく流行りを見通す目のない本読みだなあと実感するばかりである。

読み始めての感想は、思ったよりもきちんと書きこまれている、ということ。
もっとカジュアルな時代劇だと思っていたのだが、文章にいぶし銀の厚みこそなけれ、どうしてなかなか雰囲気がある。幅広い層から支持を得ているのが納得の筆致だった。

ただ、小学館文庫のデザインを考えれば仕方なかったのかもしれないが、この小説を上下巻に分けたのは明らかな失敗である。
おもしろくなるだろうなという気配は濃厚だ。
登場人物たちは、秀吉サイドも長親サイドもその芯をとらえるような描かれ方でいきいきと動いている。実際の手記を引用してみたり結末を先に提示したうえで話を進めてみたり、といった司馬遼太郎的時代劇の手法もこなれている。
しかし、それらはすべて城攻めという一大イベントのお膳立てに過ぎない。つまりこの上巻は一冊まるごと導入なのである。この構成によって高まるフラストレーションはなかなか。
読んでも読んでも肝心なところがまだはるか遠くにしか見えてこないというもどかしさは、テレビ番組でやたらと頻繁に入るCMと同様、結局モチベーションを下げてしまうものだと思う。これは、どう考えても一気読みすべき作品だ。

上巻が驚くほど静かな展開だったので下巻には怒涛のダイナミズムを期待してしまうが果たして。

福島次郎 『蝶のかたみ』 文藝春秋、1998年

蝶のかたみ
読了;2014年5月28日

ホモセクシュアリティと正面きって向かい合った、冷たさと熱さを併せ持つ文芸作品である。
本作品或いは福島次郎という作家本人について、しばしば「芥川賞候補となり、受賞は逃したものの石原慎太郎と宮本輝に絶賛された」という文言に遭遇する。と言うより、それ以外の説明をほとんど見かけたことがない。
しかし、石原・宮本両氏のお眼鏡に適ったという事実は果たしてその文学的価値を約束するものなのだろうか?
畑がまるで違う例えだが、かのベンゲルが認めたというまことしやかな評判でつかの間の寵児となった伊藤翔が結局どんなサッカー選手になったかを考えると、こういった箔付けはいかがなものかと思ってしまうのである。
かと言って、この作品の価値を認めない訳ではない。むしろ、あまりにも秀でた作品だからこそ、もっと視野の広い評価を与えられるべきだと思う。

初老にさしかかった同性愛者の兄弟を主人公に据え、ホモフォビアのきらいがある兄と、享楽を追い求める淋しき弟の不器用でいびつな交流を描く表題作は非常に味わい深い。
戦後の日本でセクシャルマイノリティとして生きること、その可笑しさ、気楽さ、悲しさが絶妙な筆致で描かれ、近年の高齢者小説とはひと味違う世界が展開される。
しかしそれ以上に、併録された『バスタオル』がとにかく素晴らしい。日本文学における同性愛小説(というカテゴライズはちょっと不本意だけれど)のひとつの完成形だという強い確信を得た。

十代の頃から自分の性的指向を自覚している主人公・兵藤は、青春期の絶望と挫折を経て田舎町での教職というポジションにようよう辿り着く。無聊をかこつような日々の中で、墨田という一人の学生との出会いがあり、互いに対して抱く感情が何であるかを意識しないまま、なし崩し的な肉体関係を持つようになる。
後ろめたさや躊躇、羞恥がだんだんと押し流されていき、ふたりがおそるおそる心を通わせていく…この過程の描写が実に愛おしい。
身体の関係が先行したふたりがしかし少しずつ恋を認めていく。その臆病で繊細な様子はきゅんきゅん必至。
兵藤が墨田にのめりこみ、また墨田も兵藤にどんどん身をまかせていくさまは、恋愛小説の粋が詰め込まれており甘酸っぱさがひしひしと胸に迫る。
気がつけばどうしようもなく好き合ってしまっていたという、なんともかわいらしいカップルなのだが、作中で兵藤が自嘲するとおり、悲しいかなその関係に未来はない。男女間の事情であればいずれ愛や結婚という美しい帰結を迎えたであろう二人の思慕は、同性同士であるがために宙ぶらりんに彷徨うばかりなのである。世知辛いなあ。

陶酔している間はいかにも崇高に思えた愛の本質を、情事に使っていた汚いバスタオルに重ね合わせるクライマックスは、とてもエモーショナルで叙情的だ。
兵藤は、そのバスタオルを洗わない。作中では怠惰で洗わなかったという表現にとどまっているが、実際彼はバスタオルに染み付いた”もの”を洗い流すことなどできなかったのだと思う。
教師と生徒という背徳の関係性、どうしても表出したがる自分の恋情、そして墨田に対する強い執着。
兵藤がどうしても認められず隠さずにはいられなかったそれらが、洗われないバスタオルという小道具によってあまりにも雄弁に語られるのである。

恋愛小説には苦味がつきものである。
『バスタオル』においてが福島次郎が呈したのは、甘みと苦味が絶妙に交じり合う恋愛を描く一級の文学的技巧であった。
一方で、屈折した時代・環境・人生から恋愛市場とは距離を置いた同性愛者の生き方を描く『蝶のかたみ』も、彼の作家としての慧眼と力量を確かに感じさせる名中編である。
これほどまでに人間を描くのに長けた作家の魅力を、大御所作家の推薦だけで片付けてしまうのは、やはりどうにももったいないと痛感した。

近藤史恵 『ねむりねずみ』 創元推理文庫、2000年

ねむりねずみ
読了:2014年5月27日

國崎出雲の事情』が完結してしまった!
SHERLOCK』シーズン3が始まってしまった!
梨園が舞台のコンビ探偵ものを読むタイミングは今しかない!(?)
ということで下村富美の美しいイラスト帯にほいほい釣られてみた。
名だたる漫画家がお気に入りのキャラクターを描くというこの企画…考案した御仁のご尊顔を拝みたい!ありがとう!ただただありがとう!

ふたつの大きな事件がそれぞれ章立てされており、最終章でその相関と謎が一気に明かされるという仕組みのミステリ。
一章では、言葉を忘れていくという奇妙な現象に苦しむ若手歌舞伎役者の銀弥とその妻・一子のストーリーが語られる。その病は一体何なのかというある種の謎はあるものの、ここではむしろ銀弥と一子と一子の愛人、良高のどろどろとした三角関係に重きが置かれている。
情と情が入り乱れて、登場人物が緩慢と、しかし着実に破滅に向かうさまの筆致はまさに近藤史恵の本領発揮。緊張感たっぷりで、ついつい先を読みすすめてしまう引力はすばらしい。

変わって二章は、本来のメインキャラクターであるコンビ探偵が登場する。すなわち、武骨で生真面目だがやたらと女性にモテる無自覚たらしな探偵・文吾と、脇役ながら常に女形としての生き方を追究する歌舞伎俳優・小菊である。作中では文吾が小菊をワトスンと揶揄するくだりがあるが、このふたりは本家のコンビに近似した関係性を持つ。探偵としては腕が立つものの、生活力と社会性がまるでない文吾に、あきれたり怒ったりしながらなんやかやと世話を焼いてあげる小菊はまさに女房役と呼ぶにふさわしい。
正統派なコンビ探偵設定だが、小菊が梨園の人間であることがいいスパイスになっている。一見オネエの小菊が、周囲の誤解を楽しみながらあえて思わせぶりな言動を取り文吾を翻弄するさまなどは笑いを禁じ得ない。だが、結局最後に手玉に取られるのは小菊側であるというふたりの力関係も鮮やかに描かれている。

しかし、これだけ人物描写が好感触にも関わらず、肝心のミステリ要素はどうしても辛い評価になってしまう。
一番の原因は恐らく、歌舞伎という題材の難しさだろう。
落研を舞台にした漫画『こたつやみかん』で、「いくらうまく演っても、聴衆が頭に登場人物を描けない限り噺は受けないんだ」とイメージ喚起力の重要性を説くくだりがある。
特殊な舞台設定の小説にも、恐らくこれと同じことが言えるだろう。本作には、歌舞伎の台本の抜粋や場面の描写が盛り込まれている。バランスは適度だし、効果的な使い方をしているなあと思うのだが、いかんせん歌舞伎を鑑賞する習慣のない読者にとっては画が掴みにくいのである。
事件が起きたその時・その場所のイメージが明確に現れない。よって、殺人事件の不可解さが曖昧になってしまい、謎解きに対するがっつき感が減退するのだ。

自分の蒙昧を理由に作品を批判するのは勝手だろう。しかし、歌舞伎の描写を差し引いても、推理ロジックの弱さという難点は残る。
梨園という謎多き世界のヴェールをいちばん厚くあしらえたが故に、事件解決という重要な要素もぼんやりしてしまっていると思う。
文吾と小菊がたどり着いた真相は飽くまで蓋然性が最も高そうなそれであり、読者がぐうの音も出ないほどの説得力には欠ける。
こんな風に世界観をより重視し、何もかもを明らかにしないミステリは、果たして何ミステリと分類すべきなのだろうか?

近藤作品は『サクリファイス』等楽しんだものも多く、決して相性が悪い訳ではないと思うので、文吾・小菊シリーズにはまた挑戦したい。

中里融司 『狂科学ハンターREI』 電撃文庫、1996年

狂科学ハンターREI
読了:2014年5月26日

今や日本では指折りの画力を誇る小畑健が、ラノベの挿絵を描いていたとは知らなんだ。
いかにも90年代っぽい絵柄だが、容姿端麗キャラクターの美しさとアクションシーンの切り取り方はやはり抜群に巧い。
イラストレーターがしっかり原作を読み込んでそれを楽しんでいるのが伝わるような挿絵は、ラノベの醍醐味の一つなのだなあと感じた。

さておきストーリーだが、こちらもいかにも90年代っぽい。言わば、あかほりアニメのノリである。
狂科学あるいは秘宝科学と呼ばれる、人智を超えた能力を持つ選ばれし者同士の戦い。
軍国主義に傾倒する妄執的な元軍人の敵。
能力を付与・開花させたことによってうまれた親子の断絶と兄弟姉妹の絆。
プロポーション抜群のロリ中華娘と、血の気の多い怪力男のコンビに、飄々とした優男の三角形。
フランケンシュタインという古典文学とファンタジーの融合。
嗚呼、これが90年代エンタメでなくてなんであろうか!?

とにかく主人公・姫城玲のチートっぷりが突き抜けている。
漆黒のブルゾンをまとい、地面までとどくほど長い白のマフラーをたなびかせて銀座の空を駆ける美青年。これ以上にフォトジェニックなキャラクターデザインもあるまい。
おまけに父親がマッドサイエンティストで、姉を亡くした悲しい過去を抱え、誰よりも強い超能力を持ち、普段は爽やかだが怒りで鬼神のような冷徹さを持つ人格に変身し、表の顔は銀座にギャラリーを構える実業家。もういい、わかった!わかったから!と言いたくなるような設定のオンパレードである。
しかし、残念ながら玲の魅力はどうも中身が伴わない。主人公に掲げられながら、文章は玲の行動をなぞるばかりで決してその内面に踏み込んではいかないのだ。詳しく知りたければ続刊を読めということなのかもしれないが、狂科学によって最愛の姉を喪った玲が狂科学の力を用いて狂科学保持者を殲滅せんとしている、という幾重にも屈折した状況の背景をもう少し描いてもらいたかった。
その他のキャラクターも、魅力たっぷりなのだが如何せん軽い。
こういうのが”ライト”ノベルなのだと割り切れって楽しめる畑にはまだ到達していないことを改めて痛感した。

狂科学がどのような能力として発現するのかは多様なため、バトルシーンはなかなかに刺激的である。
例えば玲は魔玉という金属の小さな球を自在に操り、衝撃波や帯電力でそれを武器化する。一方桜は中国風の手裏剣と龍脈を関連させた大規模な攻撃を仕掛けるし、月形はパンチに念動力を込められる怪力お化け。そして、最大の敵・高柳は全身の細胞を独立させ羽虫のような形状に変化させるという能力者だ。
彼らの能力がなぜそのような形になったのかは語られず、攻撃の説明もなんだか小難しいので、勢いにまかせて読んでいると理解度50%くらいに留まるのだが、異種格闘技はとにかく熱けりゃ様になる。細かいことを気にするのは野暮というものだろう。

物語の主軸となるのは、人造人間の是非。人が創造した人に自我はあるのか、といった旨の哲学的問いが投げかけられるのだが、正直なところ本家『フランケンシュタイン』における考察を前にすると、一笑に付していい程度の深度である。
しかし、兵士として肉体を改造され、組織の歯車となって使い捨てられ、それでも尚自分の生き方を貫こうとあがくリタと、人造人間としての受動的な生に甘んじて自発性を持たないアリシアの交流はなかなか味わい深いものがあった。
いっそ、玲は脇に置いてリタとアリシアのW主人公で展開させた方が百合的…否、ストーリー的には良かったのではないかと思った。

水森サトリ 『でかい月だな』 集英社文庫、2010年

でかい月だな
読了:2014年5月25日

表紙とタイトルを見てライトノベルだと思っていたのだけれど、読んでみるとライトノベルとヤングアダルト文芸とSFのハイブリッドという感じで、人を選びそうな表紙イラストをつけたのはもったいない気もする。
十代らしい悩みや息苦しさがいっぱいの日常に、何か変化をもたらしそうな非日常的予兆がじんわり染みこんでくるストーリーは面白かったのだが、いかんせん色々な要素を盛り込みすぎていて、大事な部分がぼやけてしまったような、あと一歩という感じを受けた。

あらすじだけ読むと、綾瀬によって負った怪我を境に主人公ユキの周囲がSF的現象で変化していく、というファンタジー色の強い作品にも見えるが、この作品の中核をなすのはユキと綾瀬、そしてのちに登場する中川という三人の関係性だと思う。
そこに恋愛要素を盛り込んだつもりは毛頭ないだろう。しかし、非常に濃厚なブロマンスの様相を呈しているのだ。
事件が起こってから、綾瀬はユキの前から姿を消す。しかしユキは彼に対して周囲が期待するような憤怒や怨恨を抱く訳でもなく、ただ漫然と「会いたい」と思うのである。綾瀬の不在は、ユキの心に埋められない大きな穴を開ける。いないからこそ、ユキは綾瀬に縛られ続けるのだ。
ユキには他人の心をやすやすと開かせる人好きの才がある。事件後復学した際も、孤立するかと思いきやいつのまにかたくさんの友人に囲まれるようになり穏やかな日々を取り戻すが、周囲が元通りに近づけば近づくほどユキの中で「綾瀬がいないこと」が際立ってくる。
そんな中で新たに訪れるのが中川との出会いなのであり、そして、綾瀬の不在に痛むユキの傷は、あまりにも確かな中川の存在によって癒され始める。

中川というキャラクターはずるい。天才科学少年で、旧理科準備室を私室化して研究に勤しんでいるメガネっ子。掃除はちょっと苦手だけど、料理がべらぼうに上手く、恐るべき洞察力を持ってして必要な時に必要なだけの救済を与えることができて、勿論女子にもモテるが興味はまるで示さない。おまけにシスコン。
他人と不干渉を貫くこんな子が、ユキだけには果てしなく優しいのである。そりゃ綾瀬の代役にして不足なし。むしろお釣りがくるくらいだ。
少しずつ日常の均衡が崩れていく中で、ユキは中川が綾瀬のようにいなくならないということを繰り返し確認していく。
その安心はユキが事件後ずっと蓋をしてきた激情を呼び起こすのだが、言い換えればそれはユキの自我の目覚めなのだと思う。

ユキがなぜ自分は死ななかったのだろうと吐露する場面で、中川は言う。

「君が死ねば綾瀬ってひとは人殺しになっていた。だから君は生き残ったんじゃないの」

このセリフは重い。
人のために生きること。字面は美しいが、その本質は果たしてそんなに褒められるものなのだろうか。
ユキは家族や周囲のために自分を抑えているうちに生き方を見失う。
中川は母を亡くした妹の喪失感を埋めることに人生を賭け、かごめの恋慕を鑑みようともしない。
綾瀬はユキへの贖罪に生涯を費やすことを約束する。ユキがそれを望んでいないにも関わらず。
人生は人との関わり合いで織られていくものだ。いい意味でも悪い意味でも、人は自分だけで生きてはいけない。
青春の過渡期にあるユキがそれを少しずつ学んで受け入れていく、そんな過程が丁寧に丁寧に描かれている作品だと思う。

SF要素に関しては、序盤から引っ張った割にあっさりしすぎていたので肩透かしをくらった。クライマックスはもう少し筆を割いてしっかり書いてくれた方が親切だろう。
何かが「見える」邪眼を持つかごめというキャラクターも、例えば中川に比べると非常に薄っぺらな造形で惜しい。
しかし、総評すると、デビュー作ならではの勢いと意気込みがありながら繊細さをも残している、いい作品だと思う。
SF寄りで透明感のあるジュブナイルは読んでいると心のよどみがリセットされるので、是非次作も読んでみたい。

ちなみに、綾瀬とユキの関係性はBL漫画の名作『スニーキーレッド』を思い出した。
現実で暴力を奮う人間は情動の抑制ができない病人だと思うけれど、だからこそ暴力衝動を題材にしたこういう創作には多大なる存在意義がある。我々に代わって殴られ傷ついてくれる崇高な非実在青少年たちに感謝。

ニック・ホーンビィ 『ア・ロングウェイ・ダウン』 集英社文庫、2014年

ア・ロングウェイ・ダウン
読了:2014年5月23日

絶望的な時間のなさに悩まされる今日このごろ。
本を読んでこそはいるものの、逐一感想を書くのは諦めるしかなさそうだ…嗚呼。
6月にはもう少しペースを上げたいのだけれど、どうなることやら。

『アバウト・ア・ボーイ』『17歳の肖像』の著者によるポップなヒューマンドラマ作品である。
描かれているのはまさにイギリスそのものというか、ロウワーミドルからワーキングクラスのイギリス人にとって等身大のイギリスとはこういうものだということがありありとわかる。現代文学に於いて風俗表現のリアルさが賞賛されるケースはあまりないように思うのだけれど、こういう「今」の空気を文章で出せるってなかなかの技巧ではなかろうか。

物語はある大晦日の夜から始まる。四者四様の理由でこの世に絶望した輩が自殺の名所であるアパートの屋上で鉢合わせ、飛び降りの順番を巡って諍いを起こすという、ナンセンスなんだかシュールなんだか、とにかくイギリス風の皮肉っぽい笑いの要素が満載の開幕だ。
スキャンダルで失脚したテレビ司会者、言動がぶっ飛んだ美大生、植物人間の息子の介護に疲れた敬虔で純情おばちゃんに、夢やぶれたアメリカ人のバンドマン。
本来ならばその人生の道筋が交わることはありえなかったであろうそんな四人が、「大晦日に飛び降り自殺を考えた」という奇妙な共通点によって小さなコミュニティを形成する。しかし、その結びつきはゆるい。そこに全幅の信頼や、理解、同情、共感といったセンチメンタリズムはほとんどなくて、本人たちにもよくわからない磁力によってなんとなく仲間になっていくのである。

例えば『陽気なギャングが地球を回す』では、もともと赤の他人だった四人が強盗行為によって連帯する様が描かれ、読者が共犯者意識や内輪感というような彼らの親しさに愉悦を覚えるような形式になっていた。
ところが、この作品に於いて四人はいつまでもバラバラである。誰かと誰かはずっと口論しているし、四人でいたから何かがうまくいくということも特にない。彼らは仲間でありながら、飽くまで一人ひとりなのだ。
四人でいることがもたらす唯一の変化が、もうどこにも行けないし行きたくないという各人の意思に関わらず、何故かいつのまにかどこかへ動いていってしまうということ。そしてこの「いつのまになんか動いている」というのは、この物語自体の進み方でもある。
実際、大晦日に物語が始まると書いたが、その後の物語はものすごくとりとめがない。これも非常に現代イギリス的だなあと思うのだが、物語の進む先に、到達すべきゴールが設けられていないのだ。
こういう時系列でこういう事件があってそれが伏線になってこうつながる、というルート設定がない。ぼやーっとした四人の生活をぼやーっと追う、演出がまるでないリアリティショーのような手触りのストーリー展開なのである。

しかし、よくよく考えてみれば、自殺せんとした人間を描くにあたってきれいな結末がありえないのは当然だ。
四人が自殺を考えたのには理由がある。例えばモーリーン。彼女が飛び降りるのをやめたからと言って、植物人間の息子が目を覚ます訳ではないし、また介護に明け暮れる日々に戻るだけだ。
この話は、そういう事実を、何度も繰り返し、そして克明につきつける。
自殺をやめました、また生き直そうと思いました、人生つらいけど前を向いていこう、めでたしめでたし、というご都合主義に正面きってNOと言うその大胆さもまた、イギリス人の人生哲学を強く感じさせるものだ。

では、この物語は一体何なのかというと、前述のとおり、本人がどう思っていようが何を考えていようが世界は進むのだということを説いているのだと思う。しかもだいぶネガティヴな口調で。
登山で本当にしんどいのは下りだという。下り坂を走らずに降りるのは膝に負担がかかる。でも、いちど下り始めてしまった以上、立ち止まることは許されない。慣性の法則にしたがって、ただただ下る。
それと同じで、人生はつまりA Long Way Downなのだ。
四人にとっての人生の課題は、ほとんど何も解決されない。(問題の解決をもってして話を帰結させないのは、イギリス映画でもよく見られるパターンだ) 生きづらさはこれからもずっと彼らにつきまとうだろう。それでも、四人は生きていく。希望があるからではない。生きがいを再発見したからでもない。彼らは、ただ、「自殺できなかった」のだ。

自殺に取材する文学作品は数多くあるが、こういう視点で生きることの覚悟を描く小説は珍しいと思う。
ただ、最所訳に引っかかるところと、イギリスの大衆文化を知らなければ笑えない箇所が多くあって、万人には勧めづらい一冊。
かつての翻訳小説のように、現代小説も用語解説を入れてくれればいいのに。
さておき映画化も決まっているとのことなので、公開の暁には是非観てみたい。

ゴールデンウィークの思い出

なにかとばたばたしていてしばらく本の感想を書く暇が持てず、このままでは読んだ本を忘れていきそうなのでとりあえず簡略版をば。
短く書けそうなものだけなんとか…骨太な作品は手が回らなかったのでまた後日。

アン・マキャフリー 『だれも猫には気づかない』 創元推理文庫、2003年
だれも猫には気づかない
懲りずにまた猫もの。たまたまタイトルに惹かれて手に取ったのだが、読了後、積ん読している『歌う船』の著者だと知って驚いた。
中世的な世界を舞台にした勧善懲悪ファンタジーで、ドキドキやハラハラは特になく最初から最後までベタなストーリー。
タイトルに反して、猫のニフィは王宮中から一目置かれている超賢猫で、
著者がとにかくこの子をいかに美しくエレガントに描くかに苦心した感がひしひし伝わる。
ただ、かと言ってそれほど印象的な猫エピソードがある訳でもなし…特筆すべき感想も特になく、まあまあな感触。

高瀬彼方 『ディバイデッド・フロント 3』 角川スニーカー文庫、2005年
ディバイデッド・フロント 3
ページをめくる手が止まらなかった。一行一行が波のように胸に迫り、読み終えた後に途方も無い充足感がもたらされた。
2014年読んで良かった本ランキングを作るとしたら、恐らく上位に食い込んでくると思う。
前作が続刊としてあまりにも見事で、物語の輪郭と様式を完璧に成立させていたので、最終巻ではどうまとめられるのかという点だけに集中できたのも良かった。
前作の感想で生駒だけが一人称パートがなかったことを指摘したのだが、今回のプロローグでは涙必至の演出が。そんなのずるいよ生駒隊長…!
こんな特殊な舞台設定で普通なラブコメとか無理ありすぎでしょ、という所感を初めに抱いたというのも、蓋を開けてみればただ高瀬彼方の手のひらで転がされていただけだったという。
普通な訳がない。普通にできる訳がない。それでも普通であり続けようと抗う戦士たちの生き様と、それをあざ笑うかのような現状の厳しさがこのシリーズの核なのだと思う。
ハッピーエンドではないが、しかしつらいだけではない。キャラクターの途中参入も効果的で、最後まで失速せず、すばらしい完結だった。

泡坂妻夫 『しあわせの書』 新潮文庫、1987年
しあわせの書
どこの書店に行ってもけたたましく煽情的なポップと共に平積みしてあって、そんなに言うなら!と購入。
いちばんの肝であるトリックは確かにわかると面白いのだが、そのトリックによって生まれる制限のためか、物語自体の引力はいまひとつ。
泡坂作品ならもっと面白いのがいくらでもあるので、何故これがここまで”売れて”いるのかはいまいちわからなかった。
本格推理小説と言えるかどうかはやや疑問が残るが、電車の中でさらっと読む分にはよい。

栗本薫 『優しい密室』 講談社、1981年
優しい密室
十代の時に読んでおけばよかったという激しい悔恨に襲われた。あの頃の自分にとって一体どれほどの救いになりえただろう。
青春小説の名作と言われることが多いこの作品だが、”みんな”の側に入れない女子高生の気持ちがほんとうによく描かれている。
エモーショナルな方向へ加速していくと思いきや、探偵ものミステリとしてもレベルが高く保たれていて、いかにも名作然とした名作。
栗本薫はもう少しドロドロしたものしか知らなかったので、このテイストは意外だった。
女性にお薦めの本を聞かれたときの正答ストック入り。
楡井亜木子『はじまりの空』を思い出した。

茅田砂胡 『祝もものき事務所』 中央公論社、2012年
祝もものき事務所
チャラいなー。スーパーライトだなー。という印象。
なんとなく読み覚えのある感覚があってよくよく考えていたんだけれど、創作SSのノリなんだと合点がいった。
リーダビリティは高く、あまり引っかかることもなくさらさら読めるのだがいかんせん薄味すぎてなんとも言えない。
タイプの違う二人の美青年脇役が、お互いに「かわいい」と言い合ってるのが不意打ちな萌えで唯一よかったかなあ。伝わる人だけに伝わるたとえ方をすると、『ミスターフルスイング』の司馬・兎丸みたいな感じ。
シリーズ第三作目はこの子たちメインの短篇集らしいので、気が向いたら読むかも。

三田誠 『烙印よ、刃に囁け。―SCAR/EDGE』 富士見ファンタジア文庫、2004年
烙印よ、刃に囁け。
1/4読んだあたりで「あ、これダメな感じのだ」と悟り、結局面白さを見いだせないまま読了。
主人公が主人公たる意義がイマイチ見いだせず、アクションシーンもあまりイメージ喚起力があるものではない。
作中で異口同音に狂ってると形容される悪役の親玉も、『マルドゥック・スクランブル』のボイルドを思えばかわいらしいものだ。
異能力者同士のバトル、親のいない高校生、学園生活、ボーイ・ミーツ・ガール、過去の因縁、とラノベの定番がいっぱい詰め込まれているのだが、では他のラノベ作品と一線を画す作品ならではの魅力は聞かれるとちょっと返事に窮すると思う。
ラノベ修行の道、未だ一進一退。

牧野修 『私の本気をあなたは馬鹿というかもね』 メディアワークス文庫、2014年
私の本気をあなたは馬鹿というかもね
大大大大好きな森奈津子先生がTwitterで宣伝してらした、出たてほやほやのラノベ!
女の子の描き方が魅力的すぎてくらくらする。一人ひとりは勿論、メイン三人が揃ってわいわいきゃっきゃやっているシーンはページから星が飛び出してきそうなくらいキラッキラで涙が出そうになった。
ストーリー自体はかなりどっしりとしていて、背景の深淵さが余計に少女たちの輝きを引き立てているようにも思う。
悪い奴がとっちめられて世界が変わってバンザイめでたしおしまい!ではなく、日々はいつまでも続いていくのだということを示唆する結末には胸が詰まった。
でも読後感は悪くないんだよなあ…少女たちの与えてくれる希望がほんとうに大きくて、元気の出る一冊。
できたらまたちゃんと感想を書きたいと思う。

伊坂幸太郎 『陽気なギャングが地球を回す』 祥伝社文庫、2006年
陽気なギャングが地球を回す
地震の揺れで自部屋の本棚から転がり落ちたので、折角なら、ということで再読。もう8年前の作品であることに驚くと同時に、伊坂ブームってまだ10年か、ということにも驚き。
伊坂作品はかなり久々だったが、語り口の軽妙洒脱な印象は今でも変わらなかった。
一口で言って、面白い。もうほんとこれに尽きる。ジ・エンタメ。嗚呼愉快。
ストーリー自体はそれほどなのだが、こういう仕上がり感にするにはあまり濃厚すぎる筋でもダメそうだし、結局バランスとしてはこれくらがいちばんいいのだろう。
伊坂作品の登場キャラクターにはどことなく類型があるように思うが、『重力ピエロ』の弟くんや久遠のキャラデザには著者の深い愛情を感じる。こういう男の子が、伊坂幸太郎にとってある種の理想形なんだろうか?