清水マリコ 『侵略する少女と嘘の庭』 MF文庫J、2012年

侵略する少女と嘘の庭
読了:2014年10月12日

カドカワKindle三発目。そして、三度目の正直。楽しめた。楽しめたよ!やった~!
前二作でハードルが地面すれすれに下がっていたことも多少作用しているだろうが、それを差し引いても、申し分なくおもしろいと言える。
Kindleアプリでの読みづらさも今まででいちばん少なく感じた。なぜだろうと思案していたのだがなんのことはない、改行が少なく、会話と地の文のバランスが適当で、端的に言うと一般的な文芸書のような紙面だからだ。
つまり、下半分が白いタイプの作品は電子書籍との相性が悪いということであり、ラノベをKindleでザクザク読もう作戦は早晩頓挫した。

主人公は男子中学生の牧生。彼がつるんでいる幼馴染の男女四人グループと、突然その輪の中に飛び込んできた性格の悪い美少女、りあの五人を中心に話が進んでいく。五人のキャラクターは、描写の細かさに差こそあれ、皆きちんと性格が立っていて魅力的である。特に、牧生とりあのメイン二人がかわいくて、かなり寄り添った気持ちで読むことができた。
超絶美少女でありながら悪魔と呼ばれるほど周りを顧みないりあは、ラノベのヒロインにありがちな造形ではある。しかし、話が進めば進むほど、数々の問題行動の背景に彼女のどんな心情があったのかが明かされていき、ただのわがまま地雷女ではないりあが見えてくる。そして牧生という尋常ならざる器の持ち主がそんなりあを受け入れていくさまに、大きな救済とカタルシスを覚えた。
学校では単なるトラブルメーカーでしかないりあが、牧生と二人きりの時は違う顔を見せる。ともすればあざとすぎてうんざりするようなこの設定が、この作品ではとても自然で且つ効果的に使われていて、上手いなあと感心しきりだった。

牧生とりあの交流が深まるのと同時進行で、いつまでも昔のままのふりをしてきた幼馴染四人の関係性にも変化が訪れる。このあたりの人物の絡め方にもリアリティがあって読んでいて楽しい。決定的な出来事があって完璧に断裂するとかではなく、いつのまにか亀裂が入っていて、そこから段々と形がゆがんでいくような十代の友情をよく捉えていると思う。そして、各人がそれぞれの取捨選択を強いられる中、牧生はりあルートを選ぶのである。

「でも、誰だってあると思うんだ。外から見たら、格好悪い、くだらないかもしれないけど、自分には、すごく大切で、バカにされたくないものって」

この牧生の言葉に代表されるような、個々にとってのかけがえのないものを理解することは至難の業だ。それがなければ人間関係は成り立たないというのに。
中学生である牧生たちがそれを外部の無理解から守りぬくことは更に困難を極める。しかし、りあという愛すべきヒロインと出会い、また牧生という得難きヒーローと出会い、二人は互いに互いを守ろうと必死に足掻き始める。
共に過ごした時間の長さが幼馴染同士の絆ならば、牧生とりあのそれは工作という趣味だ。牧生はガンプラ好きで、りあは小さな箱庭を作っている。二人とも特別な技術がある訳ではなく作品は稚拙なのだが、それがまた二人の若さや迷いを象徴しているかのようだった。

クライマックスでは疾走感がぐっと増し、伏線が一気に回収されていく。謎がどんどん解けていくと同時にりあを縛っていたものが解かれていく、という構成はほんとうに快感だった。
そして、牧生とりあの出会いが、偶然ではなく必然によって決められた「運命」だったことがわかる時、この物語の美しさに思わずぐっとくるのである。

「……怖いけど、牧生が一緒なら」

でもいまは、おれが一緒だから。

嗚呼、なんというピュアネス…。ため息が出るほどいじらしいジュブナイル小説は、秋の疲れた心にしみじみ染みた。

葉村哲 『この広い世界にふたりぼっち』 MF文庫J、2012年

この広い世界にふたりぼっち読了:2014年10月10日

カドカワフェアでKindle購入したラノベ第二弾。
ルビによって行間がガタガタになり、読みにくさ極まれりという印象だったファミ通文庫と比べると、MF文庫は環境設定がきちんとなされていてほっとした。
しかし、ところどころインデントが揃っていなかったり、相変わらず挿絵が唐突だったり、何よりも一ページの文字総数が少なすぎて、どうしてもストレスが溜まるなあ。それから、Kindleアプリになぜページ数表記がないのかも謎。
作品そのものはと言えば、白い狼と黒髪の美少女という表紙イラストに惹かれて前情報ゼロで読んでみたのだが、残念ながら今年読んだものの中では下から数えた方が早いハズレ作だった。

物語の始まりは、森の中。主人公・咲希と狼の月喰いが偶然出会うのだが、出会った途端月喰いが咲希に求婚し、咲希もそれを受け入れる。この時点で既に振り落とされそうだったのだが、そのあと咲希が月喰いを「シロ」と改名したがるくだりで、この作者とは決定的に何かが食い違うことを確信。これで読者を笑わせるつもりなのか?冗談だろう…と思ったのだが結局それは冗談でもなんでもなかったのである。
想像を絶する作者の独善っぷりに途中で何度も挫折しかかった。こんなに読むのに時間がかかったラノベは初めてかもしれない。
咲希は家庭でも学校でもいじめに遭っており、月喰いは狼一族の中で異端の存在である。月喰いは咲希を娶ることで、一族からの決別の意思を露わにし、よって一族から追われることとなる。
孤独で居場所のない一人と一匹が、互いだけを拠り所にして生きる、というテーマは陳腐すぎるがわからないでもない。しかし、ストーリーのありとあらゆる部分にどうにも説得力がないのだ。
なぜ咲希だけが狼たちとの言葉を理解できるのか?なぜ月喰いは人間の男のような倫理観を持っているのか?野良犬と狼の区別もつかないほど咲希の世界の”大人”は馬鹿なのか?齢が3桁を超える狼ってなんだ?etc.この世界のシステムに関する疑問が次々と湧いて出て、そしてそれは何ひとつ解決されない。
無理が多すぎる設定の中でも特に、ついこの間まで人間をやっていた女の子が、死んだばかりの狼の心臓をむしゃむしゃ食べる、というのはいくらなんでもやりすぎだろう…。こんなものを一体どんな気持ちで読めばいいんだ?

あれよあれよという間に咲希本人にも神の力が備わり、いじめの首謀者と魔法?対決することになるのだが、このあたりはなんだかもうよくわからなくて、ひたすら早く終わってくれ…と思いながら読んでいた。
また、エスカレートするいじめによって咲希の家が火事になり、咲希を虐待されていた母親が火に飛び込んで死ぬ。この手の、本筋に絡めにくくなった厄介な人物を殺してリングアウトさせるやり方は、わたしが最も忌み嫌う演出なので読んでいてムカムカした。
咲希は一貫して、遺された者たちが勝手に意味を付与しなければ、死は無意味で単なる死にすぎないというスタンスを保っている。そこを掘り下げるための母の死かと思いきや、別にそういう訳でもなく、「ほんとうは愛し愛されたかったのかもしれないけど、まあ死んじゃったから仕方ないし、次行こ次」的な展開になる。結局、母親を殺すことは物語上どういう必然性があったのかがわからなかった。そんな風に人を殺す小説は嫌いだ。

この物語は、咲希と月喰いによる居場所の希求が主軸になっているんだと思う。(よくわからず読んだので間違っているかもしれない。)
しかし、咲希は自分で自分の居場所を潰してまわっているようにしか見えない。確かに、いじめや虐待は、彼女の非ではないことから始まった理不尽な暴力である。しかし、それがあることで咲希は自分を他の脳天気な馬鹿達とは違う特別な存在だと思っているように感じられるのだ。そこが一番引っかかった。
月喰いは確かに異端かもしれない。だが、咲希は異端ではなく、どちらかというと中二病だ。このふたりのバランスの悪さと、咲希のかわいくなさが、読む気を損なう最大の要因だと思う。異端同士は、たとえ集っても最終的には相容れない。だからこそ異端なのだ。その不調和の中で、どうふたりが支え合っていくのか、という点を踏み込んで描けば多少は読み応えがあったかもしれない。
(しかしまあそのテーマでいくと小野不由美『魔性の子』という金字塔があるので、これを超えるのは至難の業だが。)

読み終えた後少し調べたら、作者はこれがデビュー作だったようで。誰が賞をあげたのかが気になるところではあるが、稚拙さにはある程度納得がいった。「ラノベ」を書きたがった素人の仕事、それ以上でもそれ以下でもない。白い狼と黒髪の美少女という対比や、カミュの『異邦人』の引用など、アイディアはおもしろいと思うのだけれど、商業作品としての体裁はまだまだ。

エンタメ小説を楽しく読みたい。楽しい、ただ、それだけでいいのに。ままならぬものである。

ポール・ベルナ 『オルリー空港22時30分』 学習研究社、1968年

オルリー空港22時30分読了:2014年10月7日

入手しづらいマイナー本シリーズ、本日はフランスの児童書をば。
学研の「少年少女・新しい世界の文学」という文集の一冊として刊行されたものなのだが、とにかくこのシリーズはセンスが良い。
このホームページで一部が紹介されているが、どれもこれも装丁が格好良いったらない。ちなみにこのデザインなのはすべて外箱で、本そのものの表紙・裏表紙・背にはまた異なる装画が施されているという手の込みよう。こんなキレキレなデザインの単行本が一揃いになった本棚を作りたいものである。

知名度の低いシリーズでありながら、本書が傑作と呼ばれているのは、骨太で読み応えのあるストーリーと、キャラクター描写の美しさが要因だと思う。
タイトルが示す通り、物語は夜のオルリー空港という時間・空間ともに非常に限定的な舞台で展開する。主人公は、空港案内所に勤めるラファエルという美少年で、彼が、並行するふたつの事件に巻き込まれ(なかば首を突っ込んだきらいもある)その解決に奔走するというミステリー仕立てになっている。
ラファエルがその内部を知り尽くしているということも手伝って、作中のオルリー空港は手狭に描かれる。まさに、事件は現場で起こっているんだ!状態。しかし、空港は実際空の玄関として万人に対して開かれており、ラファエルが走り回る傍ら、数多の名も無き乗客たちがあちらの国からこちらの国へと旅をしていく。この閉鎖感と開放感のバランスがとにかく絶妙なのである。

この物語は、一時として同じ所にとどまらない。空港中を文字通り走り回るラファエルの動きそのままに、事件が展開し、人々が移動し、荷物が受け渡され、アナウンスが流れる。児童文学において、このスピード感は圧倒的な武器だろう。休む暇も飽きる暇もまるでない。
しかし、だからと言って読者が置いていかれる暴走ではない。
特に主人公ラファエルと、彼を大いにサポートするアドリーヌの人物描写は非常に丁寧だし、その他の登場人物たちもいきいきと描かれている。乗り物となるキャラクターがしっかり語られるからこそ、読者は物語のスピードにも安心して身を任せられるのだ。

ラファエルが関わるのは、誘拐と爆破予告というれっきとした事件なのだが、それを解決するラファエルやアドリーヌが何か特別な才能を持った少年少女ではないというところが本書の最も愛すべき点である。
誰かのことを思いやり、誰かのことを信じてみる。誰かのために必死になる。そんな当たり前のことを迷わずやってのける爽やかな勇気が、ラファエルに強運をもたらし、真実に導いていく。
児童書として模範的とも言えるこのプロットを、しかし全く説教臭さを感じさせず、寧ろ上質のエンターテイメントとして完成させている。啓蒙してやろうというへんな上から目線がないからこそ、ここで称揚される美徳はまっすぐ読者の胸に届くのだろう。

日本と欧州12時間往復の旅に慣れてしまった今でこそ空港に憧れはなくなってしまったが、海外旅行未体験の子どもが本書を読んでかきたてられる興奮はいかほどばかりかと思う。
大人のあなたにも、周りのお子さまに、心からお薦めしたい快作である。

廣田定夏 『アオイハルノスベテ』 ファミ通文庫、2014年

アオイハルノスベテ読了:2014年10月8日

自宅に積んである蔵書の中にラノベが一冊もないもので、図書館や書店に行かないと途端に疎遠になってしまうのだが、ふと電子書籍というアプローチ方法を思いつき、カドカワフェア中のKindleストアで購入。
内容の前に、スマートフォンでの読書が思ったよりも随分とフラストレーションが溜まるということがネガティブな驚き。
読みにくいわ読み返しにくいわ挿絵が邪魔でしかないわ…
セールだからといって調子に乗って6冊ほど買ってしまったのだけれど、さてどうしよう。安物買いのなんとやら。

物語の舞台は、輪月高校という進学校。主人公は、友達が少なく大した取り柄もない高校1年生、横須賀君。
この輪月高校では輪月症候群と呼ばれる現象が発生する。それは所謂「異能」の発現なのだが、在学中の高校生にしか知覚できず、ほぼ幻想に近いため実際的な影響はほぼなく、発現のトリガーや対象者は完全にランダム、能力は人によってまちまち、などなんやかやと条件がついている。
この輪月症候群によって得られる能力をシンドロームと呼ぶのだが、そもそも明確な使い分けを意図するならもう少し工夫のあるネーミングが欲しかったところ。
話の主軸のひとつは、このシンドロームが及ぼす人間関係への影響である。そして、横須賀君のちょっと特殊な個人事情をもうひとつの軸として話は進んでいくのだが、まあなんというか、構成がお粗末の一言なのだ。

まず、横須賀君が何者であり、彼が断片的に見るフラッシュバックは何か、ということを、作中でだんだんと解かれていく謎にしたかったのだろうが、物語序盤でバレバレである。横須賀君がそれに気づかないという鈍さに苛立ちを覚えるほど、清々しくバレバレ。
よって、真相に辿り着いた横須賀君の絶望や驚きがなんとも滑稽で、感情移入もあったものではない。恐らくこのあたりのくだりが、物語の盛り上がりの一つなのだろうが、横須賀君と読んでいる側の気持ちの乖離が著しく、完全に醒めてしまった。
そもそも横須賀君のキャラが最後までぶれにぶれまくっていて、結局この子はどういう子なのか、ということがまるでわからなかった。
友達が少なく、クラスでも肩身の狭い少数派という側面が強調されていたかと思いきや、幼なじみの女の子の寝込みに踏み込んでギャーギャー説教したり突然学年を巻き込む一大企画を立ち上げたりする無謀さがあらわになる。作者は一体、横須賀君を何者にしたかったのだろう?
横須賀君の一番重要な謎は結局わからず仕舞だし、言ってることが行き当たりばったりのめちゃくちゃで、とにかく主人公としての魅力が乏しいキャラクターなのだ。

そしてシンドロームという物語の肝。これも、なんっか、イマイチである。
手から炎が出るとか、ドッペルゲンガーが出るとか、透明人間になれるとか、能力そのものはベタ中のベタ。まあ尋常ならざる異能なのは確かだが、上述の条件のせいでそれは「あるとどっちかっていうと不便」な能力として扱われている。
その能力とどう向き合うか、という問いに、横須賀君は「輪月高校に通う俺達しか持ってない凄いもんだから、面白いから、あるなら使ってみようぜ!」と答える。そして、不便だから見て見ぬふりをする「世界」をぶっ壊して、面白いと思う自分の感性に従う!そうやって世界を変えていく!と言ってのける。
ああっ、寒い!寒すぎる!!
こんな子が近くにいたら絶対近寄らない…。
とにかくかくにもこのシンドローム、現実に則した学園ものにSFにもファンタジーにもなりきれない飛び道具を持ちだして持て余したという印象しか受けなかった。

横須賀君の周りを固めるキャラクターも、個性がある割に描き方が浅く、輪郭が曖昧なまま終わってしまった。
バトルは台本ありき、異能はあまり使われず、女の子の出番はそれほどなく、恋愛要素なし、主人公が何考えてるのかわからず、世界の謎は明かされない。ラノベってこんな中途半端でいいのか?続編を待てということなのか?
しかし、二冊、三冊読みたいと思える文章力でもないので、とりあえずこのシリーズは外れだったということで幕引き。
Kindleの扱いづらさも相まって、やたら疲労感の残る読書であった。

窪美澄 『ふがいない僕は空を見た』 新潮文庫、2012年

ふがいない僕は空を見た読了:2014年10月2日

「女による女のためのR-18文学賞」という冠を見て、どうせ桜井亜美的な男女のうじうじに多少具体的な性描写があるだけの恋愛小説だろ、と完全に見くびっていた。だってこれ、選考員が三浦しをんと辻村深月…(お察し
しかし、映画化からこちら、色々な人からとにかく良いと激推しされるので一念発起して一読。
「ミクマリ」の随所でフラグがぴこんぴこんと立っていき、「セイタカアワダチソウの空」で名作であることを確信、一冊読み終えた時にはすっかり窪美澄のファンになっていた。

ちょっと格好良くて人好きする以外は特にこれといった特徴のないおとなしめ男子高校生、斉藤くんを中心に、さまざまな性と生が描かれる連作長編である。
斉藤くんは、既婚の専業主婦・あんずと不倫のセフレ関係を築いているのだが、ふたりのセックスはアニメのコスプレをまとってあんずの書いた台本を演じるなりきりエッチでなんともこじらせ臭が強い。
話を読み進めていくと、あんずがこじらせている背景はよくわかる。
孫を切望するお節介な姑、ちょっと病的な夫、不妊体質、オタク趣味、自分に対する強いコンプレックス。
あんずの世界には、触れたらすぐそれとわかるような「愛」がなく、斉藤くんとの関係も割り切っているのかなんなのかあまりわからないような感じすらある。彼女の生活にはとにかく迷いだらけなのだ。しかしこのあんずというキャラクターがなんとも心をえぐる。
設定だけ聞くと性欲任せに不倫を楽しむただのガキだとも思える斉藤くんが、実際はめちゃくちゃ良い子なのも、また酷だ。
あんずも斉藤くんも、遊びとしてセックスを嗜むことができるような精神性からはかけ離れた世界に生きている。でも、セックスでしかつながることができない不器用なふたりなのだ。
あんずはこじらせているからこそ、斉藤くんはまっすぐすぎるからこそ、セフレとして始まった関係と互いへの気持ちを持て余してしまう。
その微妙なすれ違いがたまらなく切ない。

収録作品の中で最もずしんとこたえたのが、斉藤くんの友達である福田くんが主人公の「セイタカアワダチソウの空」という一篇。
所謂機能不全家庭に育ち、認知症を患う祖母の介護をしながら暮らす福田くんは、あんずと同様、こじらせてしまった経緯がわかりやすいキャラクターである。
そんな彼と対になるのが、出自に恵まれ一見勝ち組のようでありながら許されざる「オプション」を持つ田岡だ。全く違う環境で育ってきた田岡さんと福田くんだが、ふたりに共通するのは息苦しさだ。決別し得ない自らとの終わらない戦いを強いられながら、歯をくいしばって生きている。そんな両人がおそるおそる寄り添うことでうまれる、じんわりとしたあたたかさにどうしようもなく愛しさがこみあげるのだ。

窪美澄の書く人間の生はかくも平等のように思える。どんな家庭にいようが、どんな恋人がいようが、どんな性格であろうが、生は一様に容易くない。そしてその厄介さの背景にあるのが、いずれ生殖に連なる「性」なのである。
この作品は「性」に対して徹底的に客観性を保っていると思う。それが良いか悪いかという審理の視点がないのだ。ただ、どうしようもなく面倒くさいものとして淡々と描き切っている。愛や恋という概念でその生理を正当化しようとしない作風は、非常に潔い。一方、だからと言ってキャラクターたちを突き放している感じもなく、全篇を通して滋味深さが保たれているという点で、比類ない名作だと思う。

つらつらと書いてきたが、新潮文庫についてきた重松清の解説があまりに見事なので、最後はそこから言葉を借りたい。

本書に登場する人たちは、誰もがそれぞれに大きな「欠落」や「喪失」を抱えて生きている。…そんな「欠落」「喪失」を軸に据えれば、傷ついた彼や彼女たちの悲しみに満ちた物語は容易につくれるだろう。…窪さんが描き出したものは違う。まるっきり逆だった。彼や彼女が失ってしまったものではなく、彼や彼女たちがどうにも持て余してしまう<やっかいなもの>=「過剰」を活写した。失われたものを無視したのではない。前提なのだ。出発点なのだ。

う~ん、言い得て妙。一度はこういう評を書いてみたいものだ…。
とにかく、最近読んだ中でだんとつの恋愛小説だった。やはり、先入観を捨て、何ものでも自分で読んでみなくてはわからないものだ。

村田沙耶香 『星が吸う水』 講談社、2010年

星が吸う水読了;2014年10月3日

手帳の『サマードレス』と同じページにメモしてあったので、恐らくこれも百合小説なのだろうという認識で読んだ。
初めて読む作家なのに最近どこかで名前を見た気がして思い巡らしていたのだが、書店で平積みされていた『殺人出産』の人だったのか。
読み始めてしばらくして、この感じ、どこかしら既視感を覚えるし読み慣れた居心地の良さがある、と思ったら案の定、野間文芸新人賞受賞作家だった…。中沢けいとか、津村記久子とか、本谷有希子とか、そのあたり、こじらせてぐるぐるしちゃってるサブカル本読みがいかにも好きそうなやつ!(ブーメラン

表題作と「ガマズミ航海」という二作の中編を収録している。雰囲気は共通していて、あっけらかんと放り込まれる性描写の濃さも同じくらいなのだが、読後感がとても異なるので驚いた。「星が吸う水」はどちらかというとからっとしていてハハハ、という感じで読めたのだが、「ガマズミ航海」はなんともじめじめ重たい。しかも、百合ではなかった!

「星が吸う水」の主人公・鶴子は、自身の性衝動を「勃起」だと認識している女性である。
セックスの相手はヘテロの男性だが、している間に「自分が女だということが、だんだんと遠ざかっていく」という感覚を持っており、従って性の在り方については独自の価値観を確立している。
鶴子にとってセックスは自分の勃起をなんとかする排泄にも似た行為でしかない。恋人の存在も、それを効率よく済ませるための相手、ぐらいの重きでしか捉えていないのだ。その割り切りっぷりが、めちゃくちゃおもしろい。

相手の頭の中には恋人同士の幸福な流れというものが儀式のように横たわっていて、ペニスの前にまずそれをこすらなくてはならないのだ。その見えない性感帯は性器と違って、服を着てベッドの外へ出てからも、日常的にこすり続ける必要があった。

おお、言うなあ。笑
鶴子の周りには、ごく一般的な恋愛・ジェンダー観にがんじがらめになっている梓と、アセクシャルの志保というふたりの友人がいる。仲の良い友人でありながら、互いに相容れない価値観に則って生きる三人の交流はなんともちぐはぐで愛おしい。
鶴子は言わば性急進派なのだが、彼女は梓や志保の生き方に対して無理解な訳ではない。寧ろ、そんなごちゃごちゃした既成観念は捨てて、男女という性差すら超えて、性は個人一人ひとりに帰依するものってことにしてしまえば楽なのに、とすら考えている。鶴子が追求する性とは、恋愛や男女関係に伴うものではなく、独立したある種の権利なのだ。
どんなにつぶさに濡れ場を描いても、根っこはひどく乾いているような印象を受けるのは、村田沙耶香自身がセックスという行為を完全に対象化することに成功しているからではないかと思う。
と思っていたのだが、「ガマズミの航海」は一転してかなりの生々しさがあって、ちょっと読むのがしんどかった。

性に対してこういうふうな考えを持つ人間は、きっと一生悩み続けるんだと思う。
好きな異性ができました、性欲のままにセックスしました、妊娠しました、出産しました、という「自然」な生理のメインストリームから逸れてしまった自分に気がついたら、きっと元に戻ることはできない。
けれど、だからこそこういう小説は存在意義があるのだろう。負けるなセクマイ!生きろセクマイ!
なんだか久しぶりに小気味の良いジェンダー観に触れて、楽しかった。

早見和真 『ひゃくはち』 集英社文庫、2011年


読了:2014年10月1日

ナツイチの小冊子をもらってぱらぱらとめくっていた時に、野球のボールの縫い目は108、というアオリが目に止まって購入。
集英社文庫のあまりかわいくないハチ?のキャラクターが緋村剣心のコスプレをしている、あまりかわいくない帯がついてきた。
野球小説という切り口で見れば、実に爽快で文句なくおもしろい。
しかし、スポーツ小説としては、どうにも受け入れがたい要素がちらほら。
そして、小説としては、全体的に勢い任せの拙さが残る作品である。

物語の主人公は、二十代半ばのサラリーマン、雅人。恋人の佐知子の言葉がきっかけで、高校球児時代を回想していく、という大筋である。
野球の名門高校で過ごした輝かしい筈の過去をしかし雅人は封印してしまっており、当時の仲間とも疎遠になっているのだが、その理由が回想の中で徐々に明かされていく。
前述の通り、読み応えがあるのは回想部分。みずみずしい高校球児の日常がいきいきと描かれており、いかにも王道な青春小説として存分に楽しめる。雅人はベンチ入りできるかできないかの瀬戸際にいる補欠部員であり、彼の中には「選手」としての野心と「チームメイト」としての冷静さが同居していた。
こういう立ち位置の選手視点で甲子園が射程範囲内の高校野球を描く試みは非常におもしろいと思う。レギュラー確実の「天才」部員たちに対する雅人の態度にくさくさしたところが全くないのも読んでいて心地よい。そんな仲良しチームの中で最も雅人に近かった存在が、こちらも補欠部員のノブである。
そして、物語の核心は、端的に言えば「ノブを取るか、甲子園を取るか」というチームの選択に集約されていく。
このいちばん大事な部分が受け入れがたかった故に、後半読み進めるモチベーションがぐっと下がってしまった。

そもそも、学生時代に嗜むスポーツにおいて、何かを犠牲にしなければ成し遂げられない結果というものに違和感を覚えるのだ。
雅人たちは、甲子園出場というまぶしすぎる目標に盲目になり、それ以外の自分の生き方について考えることができなかった。それは、高校生としてあまりに愚かだと思うのだ。
九年後の現在、野球を続けているチームメイトはたった一人。他の皆、野球とは離れた道を歩んでいる。しかし、それが当然なのだ。よもや、高校生にもなって自分がプロ入りできるか否かがわからなかったということもあるまい。
十代のうちに考えなければならない課題や、向き合わなければいけない人生を、「でも俺たちは甲子園に出られるかもしれないから」という慢心のもとに見て見ぬふりをし、野球だけに打ち込む。それが高校野球の本質なら、そんなことやらない方がいいと思う。それは運動神経にかこつけた逃げにすぎない。
雅人たちチームは、ノブの人生と甲子園を天秤にかけた。この時点で、既におかしいのだ。人生は、何とも比較できない。人生の中に、あるいは人生の上に、すべてが在るからだ。
しかし、そのおかしさに気づくことができた人間が一人もいなかった。そして、それは明らかに高校野球の呪縛だった。

ここまで高校野球のエゴイズムを描いておきながら、最後のまとめ方が
「野球以上に大切なものがなかったんだからしょうがない、他の人もわかってるだろうし会えば仲直りできるよ」
→会ったら「俺らバカだったな~ごめんな~野球しようぜ!」
というのが、あまりにも、あまりにも拍子抜けである。ええ、結局野球容認なの?そこはしょうがないで終わりなの??
「やっぱり皆でやる野球は楽しいな」でお茶を濁すのなら、高校時代から何も成長していないじゃないか。
これを、爽快スポーツ小説と呼ぶのはいささか強引すぎると思う。

小説としての稚拙さが目立ったのは、現在・回想ともに佐知子とのやりとりである。
そもそも佐知子というキャラクターがまあいきていない。球児たちが鮮やかな分、余計にその存在の薄さが際立ってしまっている。
ヒロインでありながら、高校野球の世界がホモソーシャルである、ということを再確認させるだけの脇役だった。

メインテーマがイマイチだったので辛口になってしまったが、野球の部分は読んでいてほんとうに楽しかった。
映画版はなかなか評判が良いようなので、機会があれば鑑賞してみたい。

旦野あか里 『サマードレス』 新風舎文庫、2006年

読了:2014年9月30日

都内の図書館にすらほぼ所蔵がなく、古本でも入手困難な一冊を再開一発目に選んでしまった。
確か「おすすめの百合小説」というテーマのブログ記事で存在を知った一冊。
美しい四十女が、鎌倉の別荘で毛色の違う年下の男女二人と三角関係に陥るというなかなか燃える設定なのだけれど、150ページの短さではその設定の良さを出しきれなかったようだ。
本書でのデビュー後、一作しか発表していないという経歴からも推し量れるが、作品からは旦野の作家としての確かな力量を感じとることはできなかった。

主人公・未樹が、上司との惰性的な不倫発覚によって仕事を失うところから物語は始まる。
男はもうこりごりという未樹だが、彼女の男性不信はそもそも夫によるところが大きい。
この夫、恋愛小説における最優秀クズ野郎賞があれば真っ先にノミネートしたくなるくらい、クズいのだ。
結婚後数年で愛人を作り、彼女が妊娠・流産すると捨て、女は面倒だからと男と付き合い彼を夫婦の自宅に同居させ(『きらきらひかる』でもその一線は守られていたというのに!)彼が交通事故で障害者になった途端見舞いにも行かず捨て、その後は人間に懲りて部屋のクローゼットで茸栽培を始める。
自分のプライドがすべての拠り所で、未樹の不倫後も離婚しない。
この夫の最低っぷりが、新しい出会いとのコントラストを引き立てる役割を果たしていればいいのだが、寧ろ夫のことが悪しざまに描かれれば描かれるほど、未樹本人の魅力が揺らいでいくというのがこの作品の欠点だと思う。
未樹自身が夫と同じぐらい冷淡だった、という説明で済ませてしまうのならば、胸糞悪いエピソードをこれほど詰め込まなくてもよかったのでは。

夫から逃げるように鎌倉で暮らし始めた未樹は、有子と圭介という一回り年下の二人と出会う。
静謐な別荘の空間に、動的な有子と静的な圭介がそれぞれ侵入し、未樹の心を動かしていく。
このあたりは、官能にいくかいかないかのギリギリな感じと、有子と圭介どっちにいくんだ!?という三角関係ものおなじみの焦らしがうまく組み合わされていて、楽しんで読めた。
しかし、中盤からの展開がどうにもちぐはぐなのだ。
未樹は突然「男なんてヤダヤダ」と言い出し、圭介は「それでも愛してる」と言い出し、有子はあっさりセックスに応じる。
え?なんで?と思っている間に未樹と有子はラブラブになり、圭介がヤンデレ化していき、嘘だろ!?という程投げやりなエンドへ。
圭介の告白と未樹の驚きだけで事の真相が語られていく終盤は、まさに2時間ドラマの崖シーンそのもので、工夫もなにもない。
サスペンスというにはあまりにもお粗末。恋愛小説というにはあまりにも中途半端。官能小説というには色気不足。
結局何が言いたかったんだ…というもやもやだけが残る終わり方だった。

随所に現れるリリカルな表現は結構好きだ。

男のささくれた指先が、憂いを知らないこの身体の深みに向かって旅することを許されるだなんて。そこには、平凡でつまらない男を驚喜させるものなど、何もないのに。

しかし、他の地の文が至って平凡であるが故に、この詩的さがどうも浮きだってしまっている。

未樹の心理描写は真に迫っていて、なかなか興味深い主人公であるにも関わらず、こんな微妙な作品に終わってしまったのが実に惜しい。
百合小説、やっぱりまだまだ発展途上だなあ。