窪美澄 『ふがいない僕は空を見た』 新潮文庫、2012年

ふがいない僕は空を見た読了:2014年10月2日

「女による女のためのR-18文学賞」という冠を見て、どうせ桜井亜美的な男女のうじうじに多少具体的な性描写があるだけの恋愛小説だろ、と完全に見くびっていた。だってこれ、選考員が三浦しをんと辻村深月…(お察し
しかし、映画化からこちら、色々な人からとにかく良いと激推しされるので一念発起して一読。
「ミクマリ」の随所でフラグがぴこんぴこんと立っていき、「セイタカアワダチソウの空」で名作であることを確信、一冊読み終えた時にはすっかり窪美澄のファンになっていた。

ちょっと格好良くて人好きする以外は特にこれといった特徴のないおとなしめ男子高校生、斉藤くんを中心に、さまざまな性と生が描かれる連作長編である。
斉藤くんは、既婚の専業主婦・あんずと不倫のセフレ関係を築いているのだが、ふたりのセックスはアニメのコスプレをまとってあんずの書いた台本を演じるなりきりエッチでなんともこじらせ臭が強い。
話を読み進めていくと、あんずがこじらせている背景はよくわかる。
孫を切望するお節介な姑、ちょっと病的な夫、不妊体質、オタク趣味、自分に対する強いコンプレックス。
あんずの世界には、触れたらすぐそれとわかるような「愛」がなく、斉藤くんとの関係も割り切っているのかなんなのかあまりわからないような感じすらある。彼女の生活にはとにかく迷いだらけなのだ。しかしこのあんずというキャラクターがなんとも心をえぐる。
設定だけ聞くと性欲任せに不倫を楽しむただのガキだとも思える斉藤くんが、実際はめちゃくちゃ良い子なのも、また酷だ。
あんずも斉藤くんも、遊びとしてセックスを嗜むことができるような精神性からはかけ離れた世界に生きている。でも、セックスでしかつながることができない不器用なふたりなのだ。
あんずはこじらせているからこそ、斉藤くんはまっすぐすぎるからこそ、セフレとして始まった関係と互いへの気持ちを持て余してしまう。
その微妙なすれ違いがたまらなく切ない。

収録作品の中で最もずしんとこたえたのが、斉藤くんの友達である福田くんが主人公の「セイタカアワダチソウの空」という一篇。
所謂機能不全家庭に育ち、認知症を患う祖母の介護をしながら暮らす福田くんは、あんずと同様、こじらせてしまった経緯がわかりやすいキャラクターである。
そんな彼と対になるのが、出自に恵まれ一見勝ち組のようでありながら許されざる「オプション」を持つ田岡だ。全く違う環境で育ってきた田岡さんと福田くんだが、ふたりに共通するのは息苦しさだ。決別し得ない自らとの終わらない戦いを強いられながら、歯をくいしばって生きている。そんな両人がおそるおそる寄り添うことでうまれる、じんわりとしたあたたかさにどうしようもなく愛しさがこみあげるのだ。

窪美澄の書く人間の生はかくも平等のように思える。どんな家庭にいようが、どんな恋人がいようが、どんな性格であろうが、生は一様に容易くない。そしてその厄介さの背景にあるのが、いずれ生殖に連なる「性」なのである。
この作品は「性」に対して徹底的に客観性を保っていると思う。それが良いか悪いかという審理の視点がないのだ。ただ、どうしようもなく面倒くさいものとして淡々と描き切っている。愛や恋という概念でその生理を正当化しようとしない作風は、非常に潔い。一方、だからと言ってキャラクターたちを突き放している感じもなく、全篇を通して滋味深さが保たれているという点で、比類ない名作だと思う。

つらつらと書いてきたが、新潮文庫についてきた重松清の解説があまりに見事なので、最後はそこから言葉を借りたい。

本書に登場する人たちは、誰もがそれぞれに大きな「欠落」や「喪失」を抱えて生きている。…そんな「欠落」「喪失」を軸に据えれば、傷ついた彼や彼女たちの悲しみに満ちた物語は容易につくれるだろう。…窪さんが描き出したものは違う。まるっきり逆だった。彼や彼女が失ってしまったものではなく、彼や彼女たちがどうにも持て余してしまう<やっかいなもの>=「過剰」を活写した。失われたものを無視したのではない。前提なのだ。出発点なのだ。

う~ん、言い得て妙。一度はこういう評を書いてみたいものだ…。
とにかく、最近読んだ中でだんとつの恋愛小説だった。やはり、先入観を捨て、何ものでも自分で読んでみなくてはわからないものだ。