ニック・ホーンビィ 『ア・ロングウェイ・ダウン』 集英社文庫、2014年

ア・ロングウェイ・ダウン
読了:2014年5月23日

絶望的な時間のなさに悩まされる今日このごろ。
本を読んでこそはいるものの、逐一感想を書くのは諦めるしかなさそうだ…嗚呼。
6月にはもう少しペースを上げたいのだけれど、どうなることやら。

『アバウト・ア・ボーイ』『17歳の肖像』の著者によるポップなヒューマンドラマ作品である。
描かれているのはまさにイギリスそのものというか、ロウワーミドルからワーキングクラスのイギリス人にとって等身大のイギリスとはこういうものだということがありありとわかる。現代文学に於いて風俗表現のリアルさが賞賛されるケースはあまりないように思うのだけれど、こういう「今」の空気を文章で出せるってなかなかの技巧ではなかろうか。

物語はある大晦日の夜から始まる。四者四様の理由でこの世に絶望した輩が自殺の名所であるアパートの屋上で鉢合わせ、飛び降りの順番を巡って諍いを起こすという、ナンセンスなんだかシュールなんだか、とにかくイギリス風の皮肉っぽい笑いの要素が満載の開幕だ。
スキャンダルで失脚したテレビ司会者、言動がぶっ飛んだ美大生、植物人間の息子の介護に疲れた敬虔で純情おばちゃんに、夢やぶれたアメリカ人のバンドマン。
本来ならばその人生の道筋が交わることはありえなかったであろうそんな四人が、「大晦日に飛び降り自殺を考えた」という奇妙な共通点によって小さなコミュニティを形成する。しかし、その結びつきはゆるい。そこに全幅の信頼や、理解、同情、共感といったセンチメンタリズムはほとんどなくて、本人たちにもよくわからない磁力によってなんとなく仲間になっていくのである。

例えば『陽気なギャングが地球を回す』では、もともと赤の他人だった四人が強盗行為によって連帯する様が描かれ、読者が共犯者意識や内輪感というような彼らの親しさに愉悦を覚えるような形式になっていた。
ところが、この作品に於いて四人はいつまでもバラバラである。誰かと誰かはずっと口論しているし、四人でいたから何かがうまくいくということも特にない。彼らは仲間でありながら、飽くまで一人ひとりなのだ。
四人でいることがもたらす唯一の変化が、もうどこにも行けないし行きたくないという各人の意思に関わらず、何故かいつのまにかどこかへ動いていってしまうということ。そしてこの「いつのまになんか動いている」というのは、この物語自体の進み方でもある。
実際、大晦日に物語が始まると書いたが、その後の物語はものすごくとりとめがない。これも非常に現代イギリス的だなあと思うのだが、物語の進む先に、到達すべきゴールが設けられていないのだ。
こういう時系列でこういう事件があってそれが伏線になってこうつながる、というルート設定がない。ぼやーっとした四人の生活をぼやーっと追う、演出がまるでないリアリティショーのような手触りのストーリー展開なのである。

しかし、よくよく考えてみれば、自殺せんとした人間を描くにあたってきれいな結末がありえないのは当然だ。
四人が自殺を考えたのには理由がある。例えばモーリーン。彼女が飛び降りるのをやめたからと言って、植物人間の息子が目を覚ます訳ではないし、また介護に明け暮れる日々に戻るだけだ。
この話は、そういう事実を、何度も繰り返し、そして克明につきつける。
自殺をやめました、また生き直そうと思いました、人生つらいけど前を向いていこう、めでたしめでたし、というご都合主義に正面きってNOと言うその大胆さもまた、イギリス人の人生哲学を強く感じさせるものだ。

では、この物語は一体何なのかというと、前述のとおり、本人がどう思っていようが何を考えていようが世界は進むのだということを説いているのだと思う。しかもだいぶネガティヴな口調で。
登山で本当にしんどいのは下りだという。下り坂を走らずに降りるのは膝に負担がかかる。でも、いちど下り始めてしまった以上、立ち止まることは許されない。慣性の法則にしたがって、ただただ下る。
それと同じで、人生はつまりA Long Way Downなのだ。
四人にとっての人生の課題は、ほとんど何も解決されない。(問題の解決をもってして話を帰結させないのは、イギリス映画でもよく見られるパターンだ) 生きづらさはこれからもずっと彼らにつきまとうだろう。それでも、四人は生きていく。希望があるからではない。生きがいを再発見したからでもない。彼らは、ただ、「自殺できなかった」のだ。

自殺に取材する文学作品は数多くあるが、こういう視点で生きることの覚悟を描く小説は珍しいと思う。
ただ、最所訳に引っかかるところと、イギリスの大衆文化を知らなければ笑えない箇所が多くあって、万人には勧めづらい一冊。
かつての翻訳小説のように、現代小説も用語解説を入れてくれればいいのに。
さておき映画化も決まっているとのことなので、公開の暁には是非観てみたい。

ジョン・モーティマー 『ランポール弁護に立つ』 河出書房新社、2008年

ランポール弁護に立つ

ランポール弁護に立つ


読了:2014年4月1日

日本でイギリスのユーモア小説はとかく知名度が低い。というか、ファンタジー以外ほとんどまともに市場が成立していないのではないかと思うほど、イギリスと日本の文学的交流は希薄なものだ。
ウッドハウスのジーヴスシリーズがひっそりとしかし着実にファンを獲得しているのに対して、モーティマーのランポールシリーズはどうにも奮わない。他に比肩するものが思い当たらないくらい秀逸な法廷ものであるにも関わらず、ニッチな需要に留まっている。恐らくそれは、この話があまりにもイギリス的だからなのだと思う。しかし、ランポールシリーズの最大の魅力はすべてそのイギリス的要素にあると言える。つまり、こういった作品が日本で受け入れられないのは、読者のイギリス文化に対する理解や興味の不足と同義である。
イギリスは、閉鎖的で旧弊かと思えば奔放で斬新で、とらえどころのない文化を形成するヘンな国である。はっきり言って理解しがたい。
地理的にも遠いかの異国文化に、日本の読者諸賢が明るくないことを責めるいわれは全くない。
ただ、ランポールシリーズは、ほんとうに面白いのだ。
この面白さを多くの人と共有できない歯がゆさったら!

主人公は「人生の秋」を迎えている67歳の弁護士。妻ヒルダは家庭の絶対君主、息子は法曹界に見向きもせず、なんに対しても一家言あるアメリカ人の女の子(アメリカ人のこの描写!)と結婚し渡米してしまい、充実してるような枯れているような毎日を送っている。身だしなみや社交界に興味がなく、楽しみと言えばパブでの飲みとクロスワードパズル。
難解な殺人事件を扱う訳でも、有名人のお守りをする訳でもない。新聞に載るか載らないかという巷のしょうもない事件をちまちま担当している三文弁護士である。
つまり、あんまり格好良くないそこらへんの普通のおっさん。
こういう人物を主人公に据えるのが既にイギリスらしさ全開。
でも曲がりなりにも主人公なんだからなにかしら光るものがあるだろう、と期待してはならない。長年のキャリアで培ったある種の熟練はあるものの、それが毎回彼に輝かしい勝利をもたらすかといえばそういう訳でもないのだ。ランポールは負ける。普通に。
でも、その普通さが無性に愛おしい。

普通というのはすなわち、多面的であるということだ。
他人に対して冷たかったり妙に優しかったり。すごく冴えてたり大ぽかやらかしたり。野心が首をもたげたり分をわきまえたり。
イギリスの法曹界という日本からはそれはもう遠い遠い世界に生きるランポールからはそうして、人の普遍性を認めることができるのだ。
そして、古来よりイギリス文学の面白さとは、人間って誰しもこんなもんだよ、という真実を突き付けてくるところにあると思う。

イギリスの法廷では皆、巻き髪のかつらを被って、ラテン語だの詩の引用だのを散りばめた演説をドヤ顔でぶっ放していく。相手の言葉尻をとらえて揚げ足とりの応酬を繰り返し、こっそり手紙を回しあい…誰かの人生がそれで左右されることなどたいしてお構いなし。
これがエンタメ以外の何であろうか!
英国法をまるで知らなくても、ワーズワースが誰かを知らなくても、ロンドンの地名がちんぷんかんぷんでも、きっとだいじょうぶ。
ぜひ汎く楽しんで頂きたい、いちおしの一冊である。

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